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第一回 パースとの出会い
第二回 大人になってからの勉強
第三回 みんな外国人
第四回 教科書

第五回 クラスの有名人
第六回 留学 - 私の場合
第七回 (最終回)海外で看護師になりたい

Reikoさんのプロフィール





第七回 (最終回)海外で看護師になりたい 

2003年10月30日

TAFEでの無我夢中の1学期が終わり、どうにかクラスについていけるという気持ちの余裕が出てきた頃、「帰国したくないなあ・・」という予想していた感情が湧いてきた。海外で暮らすことがおもしろい。英語で生活することがなんだか楽しい。

どうしたら帰国しなくてすむか考えていた時、「日本で看護師の資格があるなら、オーストラリアでも看護師として働くことはできないの?」と知人から言われ、はっとした。そうか、それだ! 私は思い出した。ワーホリでNZの語学学校に行っていた頃、同じ事を考えた。「帰国したくない。NZで看護師として働けないか?」と。Nursing Councilから資料を取り寄せ、IELTS7が必要ということがわかった。当時、IELTSなど受けたこともなければ、どうような試験なのか全く知らなかった私は、先生に「IELTS7が必要なのだけど」と聞くと、間髪いれずに「Impossible」と吐き捨てられてしまった。あまりにも一瞬だったので「やっぱり私には無理な話なんだ」とすぐ諦めがついてしまった。

しかし、再び「海外で看護師になる」という希望に火がついた。私にとって海外で暮らすことや「海外で看護師として働く」ことは、子どもの頃「将来は看護婦さんになりたい」と夢見ていたことと同等のあこがれである。子どもの頃の夢は、損得など考えず、純粋に「こうなりたい」と思い描くものだった。大人になっていくと、現状に不満を感じ他に何かやってみたいと思っても、失うものの大きさに怯え、未練を感じ、保証されない未来を信じきれずに決断を躊躇してしまったりもするが、私の場合は、まあどうにかなるだろうと前向き(?)に考えている。

こんな私も小さい頃は「いい子ちゃん」だった。敷かれたレールの上を脱線することなく進んでいくタイプだった。あの頃の私は、今の私の生き方を、きっと軽蔑するだろう。しかし、海外生活で自分はかなり考え方が柔軟になったと思う。いろいろな人に出会い、いろいろな生き方があることを知った。自分の常識が人の常識でないことも知った。日本の良さも悪さも海外に出て気づくことが多かった。とにかくなんだか海外で生活するとおもしろいのである。他に説明の仕様がない。

ひとつのことを追求してやり続ける人や、人々の幸福のために身を削って活動する人などを見ると、自分はこんなにふらふらして好きなことだけやっていて本当にいいのか?と、へこむときもある。自分の思うように物事が進まないとイライラして焦ったり落ち込んだりもする。33という年齢のことが全く気にならないと言ったら嘘になる。でも、ずっと「海外で暮らしたい」と思いつづけて行動してきて、今もまた「海外で暮らしたい」と、何かが私を動かしている。今、自分が本当にやりたいことを模索しているのかもしれない。今まで、何か始めたら、次の何かが見つかってきたような気がする。その模索はこれからもずっと「現在進行形」で在り続けるのだろう。

というわけで、私は日本で働きながら海外で看護師になる計画を進行中です。でも、日本での生活がけして嫌なわけじゃないのだけどね。

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第六回 留学 - 私の場合

2003年8月28日

留学とは、雅子様のようにお金持ちで頭のよい人がするものだと思っていた。英語がペラペラだから留学し、さらに磨きをかけて留学後は外務省や外資系企業に入り、英語を使う仕事をするのだと思っていた。英語が得意でない一般庶民の自分には無縁の世界だと思っていた。

同じように思っている人も多いだろう。パースに来る前、「すごいねー、海外で勉強なんて。英語すごくできるんだね」と、尊敬のまなざしで言われたことも度々あった。そんなとき、いつも返事に困った。「え? 何がすごいの? やりたいことやるだけだけど・・・」「英語? そんなにできるわけないじゃない・・・」と引きつる笑いの裏で思っていた。周囲の人たちのイメージは、かなりすばらしいものに膨らんでいた。私は「ちょっと英語しゃべってみて!」と言われないかドキドキしていた・・・。

TAFEに入る時、「留学」という意識は全くなかった。とにかく外国に行きたかったので、TAFEはそのための手段のひとつだった。私の英語力は、入学前IELTS5.5で、TAFEが要求する入学許可レベルぎりぎりの点数だった。これは、ペラペラの「ぺ」の字があるかどうかというレベルだ・・・。

振り返ってみると、留学とは、思っていたよりも気楽にできるものだった。確かにお金はある程度必要だし、英語力もそれなりにいる。でも、お金持ちの必要はないし、英語だってペラペラの必要はない。ペラペラだから留学する人よりも、私のようにペラペラになりたいから留学してくる人の方がはるかに多いと思う。

TAFEで保育を勉強して資格を取ったところで、オーストラリアで保育士になろうと思ったわけではないし、その資格を日本で使うことはできないだろうと思っていた。それでもTAFEに来た。いくつもの課題をこなし、やっともらったCertificateは一生使わないかもしれない。でも、「あー、1年間楽しかった!」こう思えただけでも私には有意義な時間だった。資格は使わなくても、学んだ知識や経験は、自分の血となり肉となり、いつかどこかで役に立つと思っている。べつに看護を勉強した人が看護師にならなければいけないなんてことはない。何事も経験。何事も勉強。人生、無駄なことなどひとつもない。留学の目的は何だったか? ひとつの経験。やりたいと思ったことをしたまでだ。

たとえ人生200年生きられたとしても、やりたいこと全部できるわけでもないと思う。だったら、今やりたいこと、少しでもやってみたい。1年、いや数ヶ月先の自分がどこで何をしているのか予測できない状況だけれど、そんな私の人生、結構おもしろいと思う。(やっぱり自己満足)


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第五回 クラスの有名人

2003年8月2日

クラスの中で、私はある意味で存在感があった。唯一の「留学生」だからか、「日本人」だからか、いや、私が思うに「英語が流暢でない」からだ・・・。 みんな私の名前を早くから覚えてくれたが、私はみんなの名前を覚えるのに半年かかった。

名前は覚えてもらったけど、クラスにすぐ溶け込んだわけじゃない。はじめは辛抱の連続だった。私のたどたどしい英語をニヤニヤ嘲笑われたり、発音が通じなくてけげんそうに睨まれたり、グループ・ディスカッションの時は全く声をかけてもらえなかった。

「友達を作る」ことは正直どうでもよかった。1人でランチを食べていても、クラスの談笑についていけなくても、孤独を感じることはなかった。そんなことよりも、毎日、先生が何を説明しているのか、次回何を持参するのか、保育実習に出る前に何の書類を用意しなければいけないのか・・・ それらを把握するのにとにかく必死だった。

Certificate of Community Services (Children’s Services) のコースは2学期制 (Stage1 Stage2、各々20週間ずつ)をとっており、Stage1の全教科をパスしないとStage2に進めない。日本の大学のように「仮進級」などないから、Stage1でつまずいたら留年(留学期?)だ。出席率が悪くて学生ビザをキャンセルされ、母国に強制送還された他コースの留学生がいた。何事にも日本に比べたらいい加減さが目立つオーストラリアだが、留学生の出席率に厳しいとは・・・。単位が取れなかったら何が起こるのだろう??? 課題レポート一つも書き終えていない時から、かなりのプレッシャーだった。

授業についていくために心がけたことは、「休まない」「前の席に座る」「一言発言」だ。課題レポートがどう評価されるか全く自信がなかった私は、せめて「やる気」をアピールしようと、なるべく先生の前の席に座り、1授業に1回は先生の質問に答えようと心に決めた。日本にいる時、こんな立派(?)な心構えで授業に臨んだことはただの一度もない・・・。 「子どもと接する時の大切な非言語的コミュニケーション手段は?」 「
Smile(笑顔)」 「学童期の子どもの運動機能を高めるために適する遊びは?」 「Skip(縄跳び)」。大それたことを答えるわけではないし、はっきり言って単語を言うだけなのだが、これが比較的おとなしい私(?)にとっては、かなり勇気がいることだった。

授業の内容がどのくらい理解できるか、それは先生の話し方で大きく変わってくる。いつ息継ぎをしているのか分からないような早口の先生もいるし、聞いているだけで眠くなるようなおっとりした話し方の先生もいる。発音、アクセント、声量などの違い・・・。同じ英語でも、話し手によって聞き易かったり聞きにくかったりで、1語1語眉間にしわを寄せて集中せざるおえない。しかし集中力にも限度がある。同じ先生でも、午前中は5〜6割理解できても、午後は2〜3割しか理解できないなど、午後に眠気とともに力尽きる日々が続いた。
1日中英語だけで過ごすことが、初めはとてもしんどく、午後はいつも頭重感(+++)だった。

先生方の話し方に慣れていくことも、英語だけの生活が当たり前のように思うことも、クラスに溶け込んでいくことも、この頃まだ想像できなかった。

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第四回 教科書

2003年7月12日

私が通っていたChildren’s Servicesの教科書は、各ページの隅っこに縦1列穴が開いていて、クルクル巻きになった細い針金で閉じこまれている。雑に使っていると、その穴が1つずつ破れ、1ページずつ消えていく、あのお絵かきブックのような作りだ。中を開くと、文字は比較的大きく、白黒だが写真や漫画のような挿絵が多く取り入れられている。 とても高等教育機関(?)の教科書に見えない・・・とはじめ思ったが、もともと活字や読書が大嫌いな私にとって、お気楽にみえたこの教科書はとても馴染み易いものであったのも事実である。 

このお絵かきブック式教科書は、授業を進めていく上でとても意味あるものだった。 教科書には「Activity」と呼ばれる、答えをそのページに書き込む方式の演習問題がたくさんあるからだ。お絵かきブック方式のおかげで、教科書はいつも平らに開き、書き込みやすい。
これらの演習問題は、参考文献や資料ビデオのまとめや気づいたことを書いたり、問題文や質問文に対して答えや自分の考えを書いたりする。 問題形式は、左の欄にあるものと右の欄にあるもので関連するものを線で結んだり、クロスワードだったりと、高校を卒業した人たちが通う教育機関の教科書には思えない・・・と、やっぱり思ってしまうようなものだったりする。 

私の教科書は、これら演習問題の解答や、英単語の和訳で真っ黒になっているのだが、全く教科書に書き込みをしない学生がいる。 ノートやレポート用紙に答えを書き込み、教科書はいつも新品同様だ。 それは教科書を来期の学生に売るためだ。 なるべくきれいに保存して、なるべく高く売る。 そう考えている人や、そのような中古教科書をねらっている学生が結構いる。 Second Hand Bookとして使い終わった教科書の売買が日常的に行われており、図書館にはそのためだけの掲示板がある。 日本ではこんなことまでして中古教科書の売買はあまり見かけないと思う。 私自身、日本での学生時代にほとんど活用せず売り物になるような教科書もあったが、いつか使うかもしれないとか、就職した後で振り返ることがあるかもしれないなどと思って、邪魔だと感じつつもつい取っておいてしまう。 そうでなくても、大切だと思ったことをメモしたり、その個所に線を引いたりと、多少なりとも教科書とは汚れるのが自然だ。 

演習問題には、自分の現在や過去を振り返って回答するものが多い。 例えば、日常生活で行わなくてはいけないことで嫌なことは何か(早起き、宿題など)、それを行わなくてはいけない時、どんな思いであるか? 最近、楽しんで行っていたことや会話を突然遮られ、全く興味のないことをするよう強制されたり、つまらない話題に巻き込まれたことがあるか? その時、どのような感情を抱き、どのような行動をとったか? 子どもの頃、喜怒哀楽の感情を抱いたとき、その感情をどのように表現したか? なぜそのような表現方法をとったのか? などである。

よく、「人の立場になって物事を考えろ」などと言うが、同じような経験や体験をしたことがなければ、なかなかその人の立場になることなんてできるものではない。人に何か相談したとき、同じような立場になったことがない人の助言は、差し障りのない励ましだったり、例外のない良識だけに沿うものだったり、やはり判ってもらえない、と落胆することがよくある。
でも、自分の過去の経験や行動を振り返ることで、子どもの立場になって物事を考える道筋が出来てくる。だれでも子供時代を過ごすわけだから、独身の私にとって、子どもの立場になることは、妊婦や母親、嫁などの立場になるよりもはるかに容易なはずだ。

自分が何かの感情を抱いたとき、どんな行動をとったか、どのようにその感情を表現したか、あらためて考えるとなかなかおもしろい。普段、意識して感情を表現しようとするよりも、自然に感情をだしている方が多いから、なぜそのような表現方法をとったのか? などと聞かれても直ぐに答えられない。顔や体が勝手に動いているだけなのだから。 でも、それを無理やり考えていくのがおもしろかったりする。


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第三回 みんな外国人

2003年6月24日

TAFEで取得できる資格は、Certificate(1〜4の4段階ある)とDiplomaである。私が専攻したコースは、Certificate 3 of Community Services(Children’s Services)といって保育士になるためのコースだ。Children’s Servicesでは、1年通えばCertificate3、2年通えばDiplomaが取得できる。看護師で例えるなら、Certificate3は、「準看」、Diplomaは「正看」に当たる。

35人ほどいたクラスの中で留学生は私だけだったが、クラスメートの中には、ネパールやユーゴスラビア、モーリシャス島から移民してきた人や、親がアメリカ人、イギリス人、イタリア人など、純オーストラリア人でない学生も多かった。肌の色、髪の色、瞳の色、みんな違う。日本人ばかりの中で生活するのが当たり前の日本。オーストラリア国内で、外国人が身近にいることは当たり前のことだった。

それもそのはず。今のオーストラリアは、ヨーロッパ人の植民で始まり、その後も世界各国から移民を受け入れてきた。今オーストラリアに住んでいる人たちの祖先は、ほとんどヨーロッパ等の外国人だった。本当の「純オーストラリア人」といったら、原住民のアボリジニの人たちだ。でも、その「純オーストラリア人」に学校で会うことはなかった。 ということは、クラスメートはみんな外国人ということになる・・・(?)

パースから25キロ程の郊外にあった私の学校にも留学生は数十人いたが、校内を歩いていても、誰が「留学生」か「地元民」か判断が難しい。先に述べたように、移民として来た人が地元化している学生も多いからだ。ベトナム人やパキスタン人でも、今やパースの「地元民」であったりする。

不思議に思うのは、「純オーストラリア人」なるアボリジニの人たちをパース近郊で見かける機会がなぜか少ないということ。貧困や社会情勢が原因で難民として来た人々も受け入れてきたオーストラリア。しかし、アボリジニの人たちの話になると、なぜか顔を曇らせる人が少なくない・・・。

200年程前に植民が始まった日をオーストラリア・デーとして祝う1月26日は、オーストラリアの国旗を掲げたり、国旗柄の洋服を着ている人でパース市内があふれ、花火が上がったり、世界各国のショーが行われたり、日本では考えられないような盛り上がりだった。自国を称えるあの民衆の盛り上がりにえらく感動したのだが、その傍らで言葉少なくたたずんでいるアボリジニの人々を見たとき、オーストラリア・デーの違和感を覚えずにはいられなかった。

たかが1年オーストラリアに住んだくらいでえらそうに言える事ではないのだが、「純オーストラリア人」は圧倒的に多くなった「外国人」の中で、どのような思いで、どのような生活をしているのだろうか? 彼らにとって、祖国は今も「植民地」なのではなかろうか?? そんな気さえしてくる。


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第二回 大人になってからの勉強

2003年6月5日

TAFE(Technical and Further Education)とは、オーストラリア各州にある州立の専門学校のことだ。公立なので、国民なら学費はかなり安い。1年コース、5〜6万円で済む。留学生は同じコースでも60〜75万円も払うのに、格安にもほどがある・・・。しかし、これは誰もが学ぶチャンスがあるということだ。通学するのは週3〜4日というコースも多いし、パートタイム可能なコースも多いので、仕事や家事をこなしながら学ぶことができる。コースの内容は多種多様(ビジネス、IT、旅行業、保育、美容、語学、動物ケア、ホスピタリティetc)で魅力的だ。私がオーストラリア国民なら、何年でもTAFEに通い続けたい・・・(かもしれない)。 日本のような入試制度がないので、学費の面からみても、気軽に「勉強を始めてみよう」と思うことができそうだ。 ただし、人数が少ないコースはドタキャンされるし、人数が多ければ、床に座って授業を受ける学生が出てくる・・・。
大学時代、看護婦にはなりたかったが、勉強や実習は大嫌いだった。講義よりもサークル活動に重点を置いていた。テストは「一夜漬け」「過去モン」で済ませたことも多かったし、単位が取れればOKと思っていたから、提出したレポート等はいい加減な物で、今読んだら恥ずかしくて死ぬかもしれない・・・。でも、サークル活動は真面目(?) だった。オーケストラと人形劇の2つのサークルに所属していたが、国家試験前夜でも練習に行った。
学生時代を思い出すと、いつも「あの頃は若かった」という言葉が出る。オーケストラ活動は、それまでの人生の中でいちばん夢中に取り組み、一生懸命がんばったことだった。あんなに夢中になれることに、もう出会うことはないだろうと思っていた。 でも、30才を超えて、自分で選んだ学生生活、保育の勉強。 とても充実していたし、学ぶことが楽しかった。テストはなかったが、その分レポートの数ははんぱでなく、週末も家に缶詰状態が続いた。母国語でない英語でレポートを書かなければならないのだから、大変だったしストレスも感じた。でも、手抜きはしなかった。自分なりにじっくり調べたし考えた。オーケストラの時のように、「がんばった」という感じだ。 所詮こういうことは自己満足にしかすぎないのだが、「がんばった」ということは、自分にとってすごく「宝」になる。 
がんばったことを思い出しては、なぜか「あの頃は若かった」などと年寄りじみたことを言っていた私。 がんばることに年齢は関係ない。 私が次に夢中になれるものが何なのか、それを知る日が楽しみである。
大学時代、「看護」は興味がある分野だったのに、どうして勉強してもつまらなかったのだろうか? 矛盾しているようだが、「看護婦になりたい」と思っていたが、「看護の勉強をしたい」とは思っていなかったような気がする。いきなりゴールを求めて、それまでの過程は無視していた状態だ。 今回は、オーストラリアで保育士になるわけじゃないけど、「英語で保育の勉強がしたい」と思って来た。やりたかったことと、実際にやることが同じだったから、楽しかったしがんばれたのかな? 人間的に成長して、学ぶ姿勢、学ぶ土台が出来てきたのかもしれない(遅いかもしれないけど・・・)。

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第一回 パースとの出会い

2003年5月20日

2000年4月から、ワーキングホリデー・ビザでニュージーランドに1年間滞在した私は、語学学校、オーペア、ボランティア、ファームステイ、旅行など、ワーホリ生活を非常に楽しんだ。ニュージーランド国内だけでなく、憧れだったトンガやサモアにも行ったし、バンジージャンプやスカイダイビングにも挑戦した。火山島で遭難しかけて青あざだらけになったり、トンガでムカデに噛まれて病院に担ぎ込まれたこともあった。いろいろ思い出深いことはあったけれど、ワーホリでの一番の収穫は、学生の頃「英語苦手、英語大嫌い」だった私が「もっと英語ができるようになりたい、話せるようになりたい」と思ったことだった。

帰国1ヶ月前、語学学校時代の友達が、メルボルンの大学院進学を決意したり、韓国で日本語教師として働き始めたりして、なんだか自分が取り残されたような気がしたり、このまま日本に帰って普通の生活に戻ることがつまらなく思ったりもした。もっと海外で生活していたいし、中途半端な英語をもうちょっと何とかしたい・・・と思った私は、曖昧ではあったけれども「ネイティブと一緒の学校に行って英語を頑張るぞ!」という思いを土産に帰国の途についた。

子ども好きで、ずっと小児看護に携わってきた私は、保育士資格に何年も前から興味があった。ニュージーランドに戻って、長年の夢だった保育の勉強をネイティブと一緒に英語で学んでみようと、ポリテクニック(ニュージーランドの専門学校)の幼児教育コースを目標にした。

初めてIELTSを受験したのは帰国して2ヵ月後。結果は5.5。幼児教育コースに入るためには6.0が必要だった。3ヵ月後、再受験。結果は、上がるどころか5.0に下がってしまった。幼児教育コースの入学時期は2月のみ。もう一度IELTSを受けたところで結果が上がる保証はないし、だいいち入学時期に間に合わない。かといって、予定を延期してもう1年日本にいる気はしない。IELTS5.5でも入れるフローリストのコースに変更しようかな・・・と考えたこともあった。それほどまでにニュージーランドに戻りたかった。とても美しくて居心地のいい国だったから。でも、せっかく勉強したいことが具体的にあるのに、妥協して他のことを選んだら後悔する・・・と思い、ニュージーランドにこだわることをやめて、保育の勉強にこだわることにした。

国選びから再スタートした私は、オーストラリアにたどり着くのに時間はかからなかった。英語圏で、ニュージーランドの次に安い国といったらオーストラリアしかない。TAFEなら、IELTS 5.5あればたいていのコースに入ることができる。しかし、そこからが問題だった。ニュージーランドに比べて、オーストラリアはなんてばかでかい国なんだ・・・。どの都市に滞在するか、場所選びを始めることにした私は、面倒なので8つの州都だけに絞って考えることにした。北にある都市は暑そうだし、暑いと言うことはゴキブリとか変な虫が多そうだ。大都市や観光地の多いところだと日本人が多そうだし、生活費もたかそう、それに誘惑が多くて勉強しないかもしれない・・・などと考えていたら、最後に残ったのがパースだった。ガイドブックの紹介文が致命的となった。「今までパースの事を悪く言う人を聞いたことがない」。これが私のパースとの出会いだった。

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Reikoさんのプロフィール

昭和45年生まれ、乙女座、B型
好きな食べ物: ニュージーランドのアイスクリーム “Hokey-Pokey”
好きなタレント: ナインティナインの岡村くん     
趣味: フルート、スキー     

某大学看護学部卒業後、“小児科の看護婦さん”の夢を追い求めて大学附属病院小児病棟勤務。その後、恩師に誘われるまま某看護大学小児看護学講座助手として勤務。
2000年、“海外で暮らしたい”夢を追い求めて、ワーキングホリデーでニュージーランドに1年滞在。帰国後、“続・海外で暮らしたい”夢を実現させるためにアルバイトで資金作り、IELTS受験などを経て、2002年2月からパース郊外のTAFEでChild Careを勉強。同年12月、Certificate V取得。オーストラリアで看護婦資格取得を志したが、IELTS結果不十分にて、とりあえず2003年3月帰国。今後のプランについて検討中。


看護留学@
 


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