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スネル由紀さんは、2002年6月、カーティン工科大学看護学部コンバージョンコース(看護学士を持たない正看護師のために設けられた学士号取得コース)を卒業され、現在は、私立病院の外科病棟に勤務されています。

ここに綴られているエッセイは、そのコンバージョンコースの前に修了された、General Nursing Registration Program (migrant nurses) (看護師の資格をもち、永住権を取得している移民のためのプログラム)を履修されている時のものです。

看護師になろうと思われたいきさつから、英語のコース、そしてプログラム履修からRN登録までの道のりを綴って頂きました。


スネル 由紀(ゆき)さんのプロフィール

新潟県出身。東京の私立大学病院で10年間勤務。1997年渡豪。2001年4月、西オーストラリア州RN免許取得。2002年6月、カーティン工科大学看護学部コンバージョンコース卒業。同年9月より私立病院の外科病棟に勤務。夫、娘との三人家族。


【目次】

その1:看護婦というスキル その2:看護婦というアイデンティティー
その3:情報収集 その4:サバイブするために
その5:情報収集のテクニック  その6:移民用英語のコース 
その7:教室の中の多民族  その8:他国を知って自国を知る 
その9:大学付属の英語コース その10:Critical Thinking 
その11:三者面談  その12:移民用の資格取得コースへ 
その13:移民用資格取得コースの履修科目と実習 その14:チャレンジテスト
その15:必修学科23科目 その16:学科を学ぶときのポイント
その17:何科目終わったの? その18:プレッシャーに打ち勝つために
その19:ワークショップ その20:経験はある・・・図太くいこう!
その21:最終科目と実習病院選択 その22:実習オリエンテーション
その23:実習所感 その24:カルチャーショック
その25:Accountability その26:最終回 新たなる挑戦
      


その26(最終回):新たなる挑戦

最初の不安は杞憂に終わり、3週間の病院実習はあっという間に過ぎていった。

規定の評価は、無事二人のナースからそれぞれにAランクをもらい、うれしいことにジョンからもルイーズからも、この病院で働きたいのなら是非内科に来いといってもらえた。私にとって、これは何よりもありがたい贈り物だった。

最終日の勤務が終わって車に乗り込んだ私は、夜の10時にもかかわらず、ガンガンにラジオのボリュームをあげて、ハイウェイをふっとばしながら「ヤッタゼ!ヤッホー!終わったぜー!」と叫び続けた。年甲斐もないと言われればそうなのだが、日本にいた頃オーストラリアで看護婦になろうと思い続けていた時には、ただ希望しかなかった。

私のパートナーを含め、自分の周りにいたみんなが、そんなことを真に受けていたとは思えない。私とて、オーストラリアに来る前から、1%の可能性、99%の気力と努力というシビアな状況だということくらい分かっていた(なにせ金なし、家庭もち、若さジリ貧気味)。パートナーの家族達でさえ、私に資格が取れるなんて誰も想像していなかったと思う。義母などははっきりいって、オーストラリアに着いた時の英語のレベルから考えて、本当になれるなんて思っていなかったと知人に話していたことを私は知っている。(お義母様、なにも本人の目の前で言わなくたって!)

でも何故か、自分はこうなることを疑ったことは一度もなかったのである。(思い込みが激しいほうでして)大変なのは重々承知。わかっちゃいるけどやめられない!の一心でここまで来たのである。そういう事情だったから、その時、車の中で少しくらい馬鹿騒ぎしたって誰も責めやしない、誰にも責められないと思った。

実習が終わった翌日、コースコーディネーターと面接をし、その後看護婦登録の手続をコーディネーターを通して行ってもらう。「100%安心して待ってて。」と駄目押ししてくれたので、後はただ、NBWAからの手紙とライセンスが届くのを待つのみばかりであった。待っている間に、実習先の病院へ小さな心ばかりのプレゼントを持ってお礼を言いに言ってきた。残念なことに、ジョンにもルイーズにもその後会うことはなかったが、私がこの病院実習で二人から学んだことは計り知れない。ただ単に、病院の実際の業務を学んだだけでなく、いい人生経験もさせてもらえたと今でも感謝している。実習の終わった勢いですぐに働くことも考え、就職の申し込み用紙ももらってきた。

コースで勉強した勢いで、大学まで一気に終えてしまうか、働きながらパートタイムでまた勉強するか、大いに迷ったが、最終的にパートナーの希望で、今回は学生に専念しながら大学を終えるほうを選んだ。

2001年の4月に実習を終え、5月になって真新しいライセンスが認定証とともに届いた。毎週3日4日働き続け、同時に子育て家事もこなし、いろいろなハプニングに見舞われながらなんとか頑張った3年半だった。この3年半をもう一度やりたいかと聞かれれば、答えは即座にノーである。もういいです。(あ!20代に戻れるんだったら話は別)3年半なんて、過ぎてしまえばあっという間で、ライセンスを手にしても嬉しいと言う気持ちがすぐには湧いてこなかった。でも、どんなことがあっても、あきらめたりとちゅうでへこたれたりしないでよくここまで頑張ったと自分を思いっきり誉めてやった。娘も私がナースのライセンスを取ったと聞いて、思いっきり喜んでくれた。「Wow! mum cool! ワオー!マム!クール!」って。何がクールなんだか分からないが、とにかくオーストラリアでの目標の3分の1は達成したわけで少しは前進。ホッ。(残りの3分の1は学位取得、あとの3分の1はオーストラリアで看護婦として一人前になること)

さあ、今度は学士の学位取得だ!と一つやっと終わったばかりなのに、もう次の心配をしている。(貧乏性?せっかち?)もともと、大学を出るまでが私の勉強に関する最終の目的地であったから、大学を無事終えるまでは安心できない。その後、大学院まで行くかどうかは、学士コースを終え、働いているうちに決めようと思っている。今のところは特に行く必要性は感じていないが、先のことは分からない。今はとりあえず大学を無事終えることが先決。一つ終えたらまた一つ。人生が続くうちは常に何かが知らないうちに始まっている。自分でそれに気が付いて、「よし!」と思えたら、本当の意味で新たなスタート地点に立つことが出来る。

今まで休んでいたことをまた始めるにしても、始まりという意味では一緒だと思っている。どのくらい続いているかが問題ではなくて、どうやってそれを続けて行くかも大切だと思う。私の場合は、休み休みの時もあれば、ガーッと集中的に突っ走ったり、そりゃあもうめちゃくちゃ。精神的な浮き沈みもあったし、周りにいろいろ愚痴りっぱなしでご迷惑もかけました。(この場を借りてお詫びいたします)

うちの家族にも我慢に我慢を重ねさせてしまって申し訳ないと思っています。(でももうあと1年我慢してね)自分ひとりで頑張っているつもりの時期も結構ありました。(大きな勘違いでした!)まったく、周囲の協力なしでは、3年半どころか6年くらいかかったかも。この私とて、まだ模索中の身であり、あんまり偉そうなことは言えません。でも!でも!<Where there is a will, there is a way=意思あるところに道は開ける>自分が本当にやりたいと思うことがあるのなら<捨てる神あれば拾う神あり>(違った!)

ジョンレノンも歌っています。<Just like starting over>って。また新しくはじめてみよう!このタイトルは、彼の歌の中から取ったもので、これは一時離れて暮らしていたオノヨーコさんと、もう一度やり直そうよー、二人で始めた時のように!って語りかけている歌の一部だけど、この前向きで一生懸命でひたむきな決心とStarting overっていうフレーズがマッチしたので、ちゃっかりタイトルにいただきました。

私も、始まりのときの気持ちを見失わないようにしながら、少しずつでも前へ向かって進んでいきたいと思っています。私の体験したことが少しでもどなたかの参考になればうれしいと思います。
長い間お付き合いありがとうございました!

2002.7.22

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その25:Accountability

今回はちょっとながーいお話。

ルイーズはとてもオープンマインドな人柄で、私はここにいるすべてのクライエントを愛していると言って憚らなかった。クライエントのほとんどの年齢は、60代から90代で、一人暮らしをしている人が多かった。そのため、些細なことで転倒し骨折したり、顔や手足にあざを作ったり、風邪をこじらせて肺炎になるまで気が付かずに放っておいて入院というパターンが殆どだった。そういう状況でも、また元気になれば自分一人の生活に戻っていくのである。たとえ90歳でもかくしゃくとして、自分の面倒くらい自分でちゃんと見れると頑固に頑張っている。何人も成人した子供がいて裕福な生活をしているはずなのに、一緒に住むのはいやだと言うのである。彼らには彼らの生活があって、邪魔者にはなりたくないし、しかも、一緒に住めばどうしたって気を使う。それなら、多少の不自由があっても一人で生活するほうがいいというのだ。

あるクライエントは、息子たちから送られたシルクの立派なナイトガウンの下には、いつ洗ったのかも分からない、黄ばんで穴のあちこち開いたシャツを着ている。別のクライエントは、毎日訪ねてくるやはり高齢のパートナーが現れると、とたんにくしゃくしゃの笑顔で、早速居心地よさそうにしている。めったに訪れてくれる人のいない
クライエントは、そういうことを気にするそぶりも見せず、毎日を淡々と過ごしている。

ルイーズはそういう高齢のそれぞれのクライエントたちが大好きなのだ。「あの人たちは、私たちが想像も出来ない過酷な時代をすごして来たのよ。それって本当にワンダフルなことじゃない?私はそういう彼らを尊敬してやまないの。」日本、オーストラリア関係なく、病院というところで時を過ごさなくてはならない人たちは傷ついているのだ。どの年齢関係なく、自分が慣れ親しんだ日常から切り離されているのである。ルイーズは、そういう彼らを、私たちナースだけでなく、誰であってもこれ以上傷つけることをしてはいけないというのである。

ジョンはまた別の見方をしていた。「われわれは、彼らに必要なサービスを確実に提供するプロであって、それ以上のものを、彼らも自分たちに求めてはいないんだ。与えられた仕事を的確な場所、時、やり方でこなしていくことが、自分にとってはもっともプライオリティの高いことであって、一旦仕事から離れたら、そのことは考えない。今日自分がすべきことはもう終わったのだから。そうでなければ、毎日この仕事を続けていくことは出来ない。もちろん、だからといって非人間的なやり方をするつもりはないよ。それは自分の看護士としてのプライドに係わる。自分は自分なりにいつもベストをつくしているつもりだし、決していい加減に仕事をしようなどと考えたことがない。だが、人間がやれることにはどうしたって限界があるものだよ。」

こういった話は、みんなでお茶している時だったり、食事している時によく話題になったのだが、聞いててどちらの言い分も私には十分すぎるほど理解できた。これは彼らの個性の違いであって、決してどちらが正しいとか、間違っているとかいう問題ではないのである。そういう判断は誰にも出来ない。それぞれの看護婦、看護士としての仕事への姿勢であって、きっとそれは、ひいては彼らの生き方に通じているものだからだ。

彼らの話を聞きながら、自分はいったいどうなんだろうと考え込んでしまった。何を考えながら看護婦をしていたのだろう?日本で看護婦をしていたときの私は、どちらかと言えばジョンに近かったと思う。しかし、今はルイーズの言っていることも、きっと看護婦としてだけでなく、人間としても大切なことなのだと共感できる。人間として共感できるという感性は、看護をしていく上で必要不可欠なことだ。同時に、感情のみに流されず、相手が今本当に必要としていることを明らかにしていき、提供する能力も看護婦にはなくてはならないものだ。しかし、ジョンの言うとおり、人間がやることにはどうしたって
限界がある。

ジョンもルイーズも、自分なりのヴィジョンをもって看護と向き合っている。そして、二人とも決して相手のヴィジョンを否定しない。もちろん、実践する看護には、基準やポリシーが定められていて、それを自己判断で変えることは許されていない。ここを逸脱してしまうと、自分のライセンスを失うことにもなる。看護手順を変えるときには、
必ず何度も検証された研究結果がなければ変えることは出来ないし、病棟内のルーティーンを変えるときですら、病院内のコミッティー(委員会)にかけられる。ANCIやNBWAの定めるスタンダードは、看護婦がライセンスを手にするものの義務として、最低限認識しなければならない項目が事細かに決められているし、病院、クライエント、医療者それぞれに権利と義務が課せられている。特に看護婦には、Accountability(専門職業的な義務と責任)を持つものとしての自覚を常に求められる。そのような系統立てられた規制の中で、看護婦として自分の出来ること出来ないことを明確にする努力を怠ると、オーストラリアのような訴訟社会では、いつなんどき自分がそれに巻き込まれるかもしれないという危機感も感じる。

でも、それを別にしても、人間として自分の力(能力、知力、腕力?)の限界を知ることは必要なことだし、その限界を広げられたらもっといいと思う。

私にとって一番大切なことは、クライエントの力になれるナースであること。どんな風に力になれるかそこを考える。独りよがりじゃなく、押し付けでもなく、私の持てる力(知識、技術、忍耐力、腕力?元気?笑顔?なんでも)を相手に提供するわけです。一人だけの力じゃ無理だったらみんなでやる。何にもしなくたって、ただそこにいるだけでいいっていわれればそれもありとしよう。看護の質の向上ってよく言われるけど看護の本質は、ナイチンゲールの時代から変わっちゃいないんじゃないかと思う。外形を変えているのは、医療従事者達のプロフェッショナライゼーションに対する意識が強すぎるから?もちろん、プロ意識は必要なことだけれど、その内容が医者に負けない知識とか技術や地位にばかりこだわっているのでは、医療現場における看護婦の存在価値を履き違えてしまうことになるのじゃないかと思う。それが結局は、クライエントや家族を無視した医療者主導の現場につながってくるのでは。

じゃあプロフェッショナルな看護婦の存在価値ってなんなんでしょう?看護婦じゃなきゃ出来ないことってなんなんだろう?与薬と管理。でもそれなら医者にだって出来る。看護婦にしか認められていない、出来ない業務ってあるのだろうか?(ある!とおっしゃるそこのアナタ!是非メールください。思いついたことでも何でもいいですからね)

私にとってここでのRN(正看護婦)っていう職業は、お金を得る手段であるけど、自分の専門的知識技術と労働力を雇用者に買ってもらうという感覚になっている。(多分周りに影響されすぎかもしれないけれど)だから、売り物の品質は下げられないし、アフターケアもメインテナンスもしっかりしないといけない。そのぶん、支払いはきっちりしていただきます!って早く自信を持って言えるようになりたいです。ハイ。

だから、看護婦を続けている理由としての社会へのご奉仕とかそういう純な動機は隅っこのほうにそういえばあったっけという程度。ただ、自分の家族や友人や大切な人たちが看護婦としての
私を必要とするならば、喜んでこの身を捧げようって思うけれど。さらに、人間であり、看護婦である自分は、いろんな方面にいろんな種類の責任とか義務があって、それを別個のものとして多面的に見ているともいえる。だから、その義務とか責任って相手によって満たすべきものが違うわけで、雇用者にはシビアだが、現場で出会う人たちには、看護婦という一面だけで接したくないと思っている。なんかややこしいですけど。

私が日本で働いていた病院では、ヴァージニアヘンダーソンの看護理論を基本とした看護を行っていた。それも、大切な看護の基本には違いないのだが、どちらかといえば私は個人的にトラベルビーのいう<看護の目的は人間対人間の関係の確立を通して達成される>という考えの方により強く惹かれていた。彼女のInterpersonal Aspects of Nursingは看護理論の本では私の唯一の愛読書です。
(なぜなら看護の理論というよりは人間関係をメインにしているため、看護婦と患者という図式が嫌いな私には、より受け入れやすかったのかも)プロだから一段上に上がる必要なんてないと思うし、
プロだからこそ相手のレベルへ降りていける柔軟さが必要だと気付かされる本です。

ちなみに、ジョンとルイーズの意見はまったく違うようにも思えるけれど、実は共通点がありました。二人とも、<どのクライエントも自分の身内と思って接している><他人だと思うからどうでもよくなる。>この言葉、みょーに考えさせられると思いませんか?

2002.7.15

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その24:カルチャーショック

オーストラリアへ来て以来、大きな意味のカルチャーショックというものを感じたことはなかったのだが、病院に自分のボトルがキープしてあるというのには本当に驚いた。

仮にスミス夫人としておこう。スミス夫人は夫をずいぶん前に亡くし、老人性痴呆がある80代のクライエントであった。痴呆があるとはいえ、いつも上品ないでたちで美しい白銀の髪を自分できれいに整え、週一回はプロの美容師を頼むおしゃれなご婦人である。そのスミス夫人が私を捕まえて、息子にドラムビュイ(ブランデー)を持ってくるように電話で伝えてほしいというのである。「ドラムビュイですか?」「そう、よく眠れなくてつらいから、ナイトキャップ(寝酒)に持ってくるように伝えて!」と必死で訴えかけてくるのであった。「お酒よりも軽い睡眠導入剤(指示あり)はいかがですか?」と聞くと、「薬はぜーったいにいやなのよ!ねえ、お願いだから息子に電話して!」とすがってくるのである。

しょうがないから、ルイーズに事の次第を報告すると「オーライ!分かった」と一言。どうするのかなーと見ていたら、本当に息子にドラムビュイを持ってくるように電話しているのである。げげっ!?と唖然としてしまった。

黙っている私に、ルイーズが「どうしたの?」と不思議そうに聞いてくる。「ここじゃお酒も出すんですか?日本では考えられないことなんだけど。」というとルイーズいわく、「まあよく考えてみて。今までの長い人生を、いい時も悪い時もサバイバルしてきた人たちばかりよ。ここで飲みたいお酒を我慢してまで生きながらえる意味って何なのかしら?もちろん、誰彼構わず許可しているわけじゃないのよ。でも彼らには飲みたいときに飲める権利があると思うのだけど。そういう権利を放棄させる資格は、私たちにはない。医者も家族も本人もそれが問題ないと了解しているのだからいい。」のだというのである。

そういわれてみればそのとおり。病院にいるからって、病院にいるように振舞わなくてはならないのは、同室者へ迷惑をかけないという点においてのみで、治療に差しさわりが無い以上自分の生活習慣まで変える必要はないはずなのだ。ここでは本当に個人の選択の権利というものへの配慮、認識が高いと感じた。まあ、この病院が特別なのだ、他では決してそうではないといわれればそうかもしれないが、規模の小さいこじんまりとしたこの病院ならではのきめ細かいサービスの一環なのかもしれない。

もうひとつ、興味深かったのがPCA(PATIENT CARE ASSISTANT)と呼ばれる看護助手たちのことであった。彼らはちゃんとトレーニングを受けて働いているのだが、職員として働いている以外のスタッフは、まだほんの10代か二十歳前後の男の子が多かったのである。大体食事時になると、分厚いノートを横において一心に読みながら食べる。彼らの殆どが同じようなことをしているので、興味を持った私は、何をそんなに真剣に読んでいるのか聞いてみた。
大学の勉強をしているというので何を勉強しているの?と聞くと医学生だという。ほう、じゃあ将来は医者になるんだ・・・

私とて医学部のある大学付属の看護学校出身である。医学生をまったく知らないわけではないが、看護助手のアルバイトをしていた人などはっきりいって一人も知らない。障害者達へのボランティア活動をしていた人たちは知っているが、医学部の中でも変人扱いされていた印象のほうが強い。

ますます興味を持った私は、お金以外にどういう動機があるのか聞いてみた。すると、「クライエントたちのことを実際知らなくては、いい医者にはなれないと思うし、現場に出てから学ぶよりは、今がいいチャンスだと思うから。」というのである。なるほど!。「学費も自分で働いてから払っていくつもりだし、自分の小遣いくらいは自分で稼がないとね。一石二鳥でしょ?」と本当に純粋ないい笑顔をするのである。苦学生なのかしらと思って、ちなみに出身校はどこ?と聞くとパースで一番学費が高いといわれている有名な私立の男子校出身だった。なんだ、貧乏ってわけじゃないのね。もう私はただひたすら感心してしまった。

見上げた心がけである。親が金持ちだろうがそうでなかろうが、高校を出たら、もう自分の面倒は自分で何とか見ようというその心意気!そういえば私も看護学校時代、小遣い稼ぎのアルバイトよくやったよなあと懐かしく思い出してしまった。もう!おばさんは陰ながら応援するよっ!こういう若者がまだまだいるオーストラリアは、いくら豪ドルが弱くたって、日本に比べたら恵まれているなと感じてしまった。将来、いったいどんな医者になっていることやら。人間味のある腕のいい医者になってほしいな。

2002.7.8

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その23:実習所感

最初の関門は早速やってきた。とにかく何をしていいのかわからないので、ルイーズ(初日のプリセプターナース)の後を金魚のフンのようにくっついて回った。ただ黙って付いて回るのでは芸がないと思い、メモをとりつつ、わからないことはどんな馬鹿げたことのようでもその度質問しまくった。特に不思議に思ったことが酸素セットについてである。

これらはすべてのベッドサイドに必ず設置されているのだが、何故かどの酸素流量計に蒸留水が入っていないのである。実際患者に使う場合でも、空のままで行っている。入院しているクライエント達は、比較的中軽度の人が多いと言え、酸素にある程度の湿気を与えることは酸素療法の基本のように思うのだが、果たしてルイーズにそのことを聞くと、彼女も最初は不思議に思ったのだが、それは必要ないと言われたそうである。まだすっきりと納得できていない私は、じゃあ最初っからある程度湿度の保たれた酸素が中央配管を通して供給されているのかしらと聞くと、多分そういうことだろうということだった。多分!?ふむ、じゃあルイーズも確実には知らないってことだな。誰に聞けば分かるの?と笑顔で聞いてみると、肩をすくめて知らないのよ、知っている人なんていないんじゃないかしら?ええーっ!!!

一度疑問が広がると止め処もなく気にかかって仕方がなくなる。メモに、後で調べること!と書いて、とりあえずそれを追求することはやめた。(ちなみにオーストラリアでは、どこでも何にでもEvidence Based Practice=科学的根拠に基付いた看護実践を奨励しており、この酸素療法についても何年か前の研究結果で低い流量の酸素カニューラで、4L 以下程度だったら空気中に含まれる湿度で十分だし、蒸留水は感染の一因にもなるということで、蒸留水はあえて使わないらしいです、あとコスト削減という利点もあるとのこと)

実習の初日からありとあらゆることについてメモしていると、よぽどそれが珍しかったのか、何でメモをいちいち取ってるの?と聞くので、ついジャパニーズナーシングトラディション(日本の看護における伝統的習慣)と答えてしまった。もちろん、後で教えてもらったことを復習するため、一度聞いた情報を二度聞く手間を省くため、疑問に思ったことを確実にクリアしていくためなのだということをちゃんと説明しておいたが、それを聞いたルイーズは非常に感心した面持ちでそれはとってもいいアイディアだわ!とメモをとる必要性をちゃんと理解してくれた。

その後は、ルイーズが密かに宣伝してくれたお陰なのか、彼女だけでなく、ほかのスタッフからも私がメモを取らないでいると、メモは?とチェックが入るようになった。あとで、思い当たったことだが、メモを取るのに彼女の了解をまず得るべきだった。ここは日本ではないのだから、自分にとってのメモを取る必要性をちゃんとあらかじめ相手に知らせておくべきだったのだ。人によっては、それを不愉快に思う人だっているかもしれない。ルイーズもさすがに私が病室内でだけはメモを取らずにいるのを知ると、積極的にクライエントを前に「彼女は実習できている看護学生だから、私が教えることはすべてメモに取っていいって言ってあるの、かまわないかしら?」と説明さえしてくれた。それからは新しく入ったクライエントの病室以外ではおおっぴらにメモを取ることができた。

説明が後回しになってしまったが、私が実習したところはベセスダホスピタルといって、病院自体は教会を母体とした団体が非営利目的で経営している病院であった。私立病院で医療費、入院費が高額であるため、プライベートに保険に入っている人達しか入院することができない。しかしそれだけのサービスは提供しているといえるだろう。

私がいた病棟は、クライエントの総数が30名弱で、それを2チームに分けてみていた。1チーム2,3人の正看護婦と1人の看護助手がチームとなってケアに当たるのだが、スタッフのほとんどがパートタイムかカジュアル、もしくはエージェンシーから派遣されてきた臨時雇われのナースで、正職員であるナースは数えるほどしかいなかった。それでも、一人のナースが5人程度のクライエントを見るだけでいいのだから業務の流れは非常にゆったりしている。廊下を忙しそうに飛び回っている看護婦など一人もいなかった。

病室の殆どが美しいスワン川に面しており、晴れた日などはイルカが気持ちよさそうに飛び跳ねているのを病室にいながら見ることが出来る。高級住宅地の一角に立地しているためか、クライエントの殆どがパースでも有数のお金持ちエリアから来るご隠居さん達である。そのためか設備はホテル並み。食事もちゃんとしたシェフが作ってくれる。(職員の食事も有料だが申し込めばリーズナブルな値段でおいしいものを食べることが出来る)クライエント達は三食毎に前菜からデザート、飲み物にいたるまで、かなりある選択肢の中から自分で選ぶことが出来る。みなペンを持つことさえもどかしいような様子なのに、やはり食事を選ぶのは楽しみなようで、ペンを持つ手が震えながらでも、けっこう何にしようかあれこれ悩みながら時間をかけて選んでいく。

常駐している医師はおらず、医者も病院にとってはクライエントである。クリニックで見ている自分の患者達を必要な時に
病院に入院させ、医師達は朝か夕方病院を訪れ患者の状態をチェックし、指示出しをするのみで、あとは病院がすべて面倒を見る。もちろん、急変、緊急時は必ず担当医に連絡を取るが、それ以外のサービスは病院が徹底して供給するのである。こういうスタイルの病院をオープンシステムホスピタルという。逆に日本のようなスタイルの病院はクローズドシステムホスピタルと呼んでいる。実習へ行く前に、どこがどちらのシステムを取っているのか調べたほうがいいだろう。

私は日本ではあまり見かけないこのシステムでの看護婦達の役割に興味があったので、あえてオープンシステムを選んだ。感想はと言えば、日本のスタイルと比べると医師たちとのかかわり方が非常に希薄。医師はあくまでもお客さんで、入院しているクライエントについても、病院の患者というよりは大切なお客をお預かりしていると言う印象だった。その分ナースの判断力、問題解決能力が、医師の判断に頼ることなく、思う存分発揮できるスタイルとも言えるだろう。同時に、非常にビジネスライクで余計な事を考えずに仕事が出来るというメリットもあり、ここで働いていたナースたちは、却って医師に四六時中うろうろされるよりも仕事がやりやすく楽だと言っていた。東西問わず、看護婦の愚痴はどこも似たようなものだということだろうか。

2002.7.1

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その22:実習オリエンテーション

実習先のコーディネーターへは、病院から実習受け入れの手紙が来た時点で自分で連絡を取らねばならない。いつ行くべきか、何が必要か、あとはよろしくお願いしますと言うようなことを話すのである。実習が決まった1、2週間前に、看護学部へ行って実習用のユニフォームをレンタルしなくてはならない。靴は自分で調達する。まともなナースシューズは$100以上とバカ高いから、靴のディスカウントストアーへいって似たようなものを$20で購入してきた。本皮っぽく非常に柔らかい履き心地の靴だったが、中はともかく、外側が柔らかいのは長期に使う場合、身を守るという意味では却って危険かもしれない。実際病棟のナースや看護助手達は、結構使い古したようなスニーカーをはいている人が多かった。

初日のオリエンテーションでは、病院についての概要、職員としての義務、避難経路、病院の構造などが説明されあとは、危機管理についてのビデオを見せられた後、その内容についての簡単な筆記テストを行った。それが終わると、いよいよ病棟で実習が始まる。

与えられたロスター(勤務表)によると、私の場合、病院実習は平日のみの4日間、内科病棟だけで3週間でいいということだった。NBWAによる規定では、普通は内科、外科あわせて4週間の実習が義務付けられているのだが、病院のコーディネーターに4週間やらなくていいんですか?と聞くと、「まったくの新人ならともかく、日本での臨床経験もあるわけだから、きっと3週間で十分だろう。
まあ、様子をみて4週間必要なようだったら、あとで1週間延ばす事も出来るし、配しなくていいから」と言われた。実を言えば、期間が3週間でしかも子持ちの私にとっては週末がお休みというのは非常にありがたかった。

ほんとうにたった3週間で与えられた課題をクリア出来るか、自分でも自信がなかったのだが、ここまで来たからには、とにかくやるっきゃないと覚悟を決めた。課題の大方の内容は、病棟で行う細かい看護技術、コミュニケーションスキル、リーダーシップ、記録、与薬、報告、スタッフに自分の気付き、知識、情報、技術を還元できることなどの大まかな項目と、それに関係するチェックリストで、最終的にプリセプターナースからAレベルをもらうことである。看護技術に関しては、自分では一度やり方を見せてもらえば、どこででも何でもこなせるという自信はあったが、記録、コミュニケーションとなると不安のほうが大きかった。特に、病棟で電話をとらねばならないというのが一番の難関だった。実習が始まってしばらくの間は、電話が鳴るたびに心臓が飛び上がるほどバクバクした。しかし、慣れというものは怖いもので、実習の最後のほうにもなると、電話応対もさほど苦痛にならなくなった。(というより人に任せるのがうまくなった?)

私についてくれたプリセプターナースは、オージーの看護士ジョンと南アフリカから来たルイーズという看護婦の二人だった。二人とも経験豊かな40代から50代にかけてのベテランであり、ルイーズは一言でいうならば、天真爛漫そのもの、ジョンは一見気難しそうだが、仕事はきっちりとこなすニヒルなプロフェッショナルという感じ。
どちらについても、私は一目で仕事にまじめで信頼できる人たちと確信した。

実習の条件は完璧だった。あとはこの実習を無事に終えられるかどうかは自分にかかっていた。怖気付かずに彼らに体当たりしていけるかどうかにかかっていると言っても過言ではなかった。ここではもう、シャイな日本人ではいれれない。彼らと同じように行動しなくてはならないのだ。彼らと同じレベルというのはおこがましくても、彼らが自信を持って私をこの病院
のスタッフに推薦してくれるほど私を認めてもらえるように頑張ろうと気を引き締めてかかった。

2002.6.24

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その21:最終科目と実習病院選択

ワークショップも無事に終了した後は、病院実習までにのこりの学科をパスするのみ。期限は二ヶ月半。残った学科は5教科。大体二週間に1教科の計算だった。計画通り順調にこなしていったが、ここへきてダレも出てきてしまった。この頃にはすでに合格圏が68%まで下がったために、あまり本気をだして勉強しなかったように思う。23科目目の選択教科については前に述べたとおり、いくつかの科目から選ぶ事ができるのだが、ここでハタと迷ってしまった。どうせなら、自分が将来働きたい分野に関連するものをと思ったのだが、あいにく外科系の科目はなかったため、最終的にHIV/AIDSを勉強することで落ち着いた。

オーストラリアでは、俗にいうゲイ達が市民権を得ている。シドニーオリンピックのオープニングとクロージングセレモニーを覚えている方は思い当たるかもしれないが、シドニーだけでなく、年に一度ここパースでもド派手なゲイ達のパレードが催され、それを目当てに来る観光客の数は10万人ともそれ以上とも言われている。我がパートナーの同僚達の中にも、美形だなと思った人達の殆どがゲイであり、オーストラリアにいる女性達は、随分損をしているなあと思うことしきり。それだけ、彼らはオーストラリアの日常において当たり前な存在になっている。

それはともかく、オーストラリアでは1984年から1993年にかけてのHIVの高い罹患率(特にホモセクシュアルグループに多い)をもとに、徹底した性教育、安全なSEXのプロパガンダを行い(公的、非公的団体による無料コンドーム、無料注射針の提供なども含む)現在ではそれが効果を奏したのか、抗レトロウィルス剤の導入効果によるものか、新しくAIDSに罹患したというレポートの数は減少の傾向にあるといわれている。

しかしながら、HIV/AIDSの罹患率が高いのはホモセクシュアル、バイセクシュアルだけでなく、薬物中毒者、血友病患者、異性間による性交渉、血液製剤の使用頻度が高い患者、母から子への垂直感染など、可能性のある危険因子グループの内訳は様々であり、こうした問題はオーストラリアだけでなく、グローバルな健康課題の筆頭に来るテーマであるから、選択科目で悩むことがあれば是非このテーマを選ぶ事をお勧めする。日本では学び得なかった基本的人権保護への取り組み方、自分の価値観、倫理観、職業倫理、医療従事者への課題など、様々な角度から、人間として、看護婦としてのHIV保持者への関わり方、あり方を自分に問う良いきっかけになると思う。

このように非常に深刻なテーマであったが、同時にとても興味深く、
この私ですら、すんでのところで真剣にHIV/AIDSの専門ナースになろうかと思ってしまった。それだけやりがいのある分野だと思うが、同時に看護婦として人間としての力量も試されることになると思い、考え直した。(自覚してます、まだ未熟者なんです。)

23教科が全て終わった後は、実習先の病院選びが待っている。希望病院は、与えられたリストの中から3つ迄挙げる事ができる。私の場合選んだ第一条件は、自分の居住地に近い事。あとは、実際行った人たちからの情報によって決めた。気を付けなくてはいけないのが、実習先では、プリセプターナースが必ずついて指導して
くれることになっているのだが、このプリセプターナース達とうまくやっていけないと自分の実習評価を大いに左右する事になる。最悪の場合は、このコースの大トリである病院実習で落とされる可能性だってあるのだ。

実際病院実習を二度受ける羽目になった人達がいたことも知っている。(オージーですら例外ではありません)そういうわけで、病院選びは慎重に慎重を期したほうがいい。ポイントは、1)あまり忙しくない病院(忙しいと看護婦に教える余裕がなく学生は単なる邪魔者になってしまう)、2)公立よりも私立(ファシリティーが充実している)、3)移民看護実習生を受け入れなれている病院(英語のハンデよりも、看護婦としての能力のほうに評価のポイントをおいてくれる)、4)なるべく他の学部実習生達と重ならなくてすむところ(1)と同じ理由)、であった。

私の場合、悩んだ末に私立のBethesda Hospitalを第一希望にした。理由は、1)自宅により近い、2)そこで実際実習した日本人看護婦が、あそこだったら楽勝と言っていたのを真に受けてしまった(注:どこの病院でも実習に関しては楽勝ということは絶対ありません)、3)うちの義母がそこのお得意さん(よく入院するので)でもともと親近感があった、などなどである。また、あまり情報がない段階で病院を選ばなければならないときは、自分の希望をコースコディネーターに伝え、アドバイスをもらうことが一番確実である。自分が希望していても、学生の実習が重なる病院では、学生が優先されるために後回しにされることもあるし、実習生を受け入れない病院もでてきたりするからである。よく相談して、できるだけ自分の希望に近い病院を選んでもらうといい。

さて、病院実習は平日、週末問わず日勤は朝の7時から午後3時半までと準夜勤は午後1時から夜9時半まで。そのため確実な通いの足(特に自家用車)があることが重要となってくる。足がないと病院実習の交渉の段階で、病院側が受け入れを渋ることがあるので要注意。

2002.6.17

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その20:経験はある・・・図太くいこう!

現場を離れて3年近く経っていた私にとって、この病院実習前のワークショップは非常に有難かった。最初のうちこそ、まだちゃんと覚えているかしら?と不安もあったのだが、実際始まってみると昔取ったなんとか
で、英語さえ問題無ければもう明日にでも看護婦として働けるような気がしてきた。

大方の技術は日本と変わらないが、講師達が口を酸っぱくして何度も念を押すのが、自分の身は自分で守る事。特にワークショップでは、患者の身の安全を守る以前に、看護婦達の身の安全を守る事に重点を置いていた。転落事故、輸液交換、注射時の針刺し事故は日本だけでなくオーストラリアでも深刻な問題であるが、まず医療従事者達が自分を守る術を徹底してマスターしなければ、結果的に患者を巻き込んだ事故につながるということをしっかり認識することが、医療事故予防の第一歩とされている。要は自分を守ることも出来なくては、人を守る事などできないということである。

輸液交換、注射施行時のみでなく、包帯交換、患者の体液に触れる恐れのある時は、必ず手袋の着用が雇用者側から被雇用者に対して義務付けられている(こういった手技に関する細かい取り決めは、かならずどこの病院でも分厚いファイルとなってまとめられている)ため、万が一これを怠って感染した場合は、一切看護婦側の責任になってしまう。ちなみにオーストラリアでは、オペ前といえど、患者の同意なしに勝手に感染症を調べる事ができなければ、採血することも出来ない。(ただし、州によっては交通事故などの緊急時には、医療者の判断で血液検査をしていいことになっているところもある)

こういった事情が当たり前のここでは、無菌、非無菌関係なくディスポーザルの手袋を、みな湯水のごとく使っている。日本の感覚から言えばもったいないの一言に尽きるが、これを使う事は医療従事者のみだけでなく、病院で勤務するスタッフ達の義務であると同時に権利でもある。このような事情からコストの心配は病院側に任せて、われわれ看護婦は、自分の心配をせねばならないのだということを、しつこいくらいに念を押されるのである。手袋の心配よりも自分の心配をしなさいよーと、声だかに言えるオーストラリアの看護婦達は恵まれているなーと感じた反面、それだけシビアな現実にも直面しているのだということにはたと気が付いた。しかし、果たしてこれが日本であったら義務、権利として同じように認められるだろうか?疑問の残るところである。

ワークショップに参加して気が付いた事の一つに日本では当たり前の看護技術の一つである無菌的操作、清潔準清潔的な操作が出来ない人が非常に多かったということ。実技テストの前に必ず2人か3人かでペアを組んで練習をするのだが、清潔不潔の区別を難なく出来る人があまりいなかった。私とぺアを組んだケニア人の看護士は英語は立て板に水のごとく鮮やかだったが、実技のほうといえば???であった。練習に四苦八苦している他のメンバーを見ながら、日本の看護技術の水準は世界的に見て高いと確信してしまった。

点滴準備・交換、注射施行、ドレッシング交換等の清潔、無菌的操作の実技テストにおいては外科での経験が役立ったのか、すべて一発でオーケーが出た。< That's excellent!> と現役ナースから過大なお誉めの言葉まで頂戴した。しかし、新人のナースならともかく、経験のあるナースにとってこれが出来たからって自慢にも何にもならない。つい、「そりゃ英語はいまだにうまくはないけど、日本で10年も看護婦してたら誰だって出来ることなのよ。私だって英語さえ問題なければ明日からでも人並みに働ける自信はあるのよ、と大見得を切ってしまった。」およよ!。(ストレス溜めすぎるとこうなります)

しかしそのナースは「あなた、英語は慣れれば問題無いわよ!(慣れるまでどうすりゃあいいのよ?)
ところで就職はどこにするつもり?外科で働きたいんだったらうちの外科はいいわよー!研修も充実してるし!」と今度は親切に勧誘してくれる。こんな英語もろくすっぽしゃべれない私にすら声をかけてくるなんて、
やっぱりオーストラリアはよっぽど看護婦が足りないんだなーとみょーに納得していたら、信じられない一言が耳に入ってきた。「ねえ、こんなところで申し訳ないんだけどお寿司ってどうやって作ればいいの?
教えてくれない?」(出たな!オージーお得意の時と場所を選ばず精神)

教えましたよー、他のみんなが汗だくで無菌的操作の実技テストやってる中。いやCould you please help me?って言われて断ったら、人非人って言われます。これも国際親善の一つ。(なんて太っ腹!=事実太い腹してます五段くらいの=墓穴)ポイントは舎利はうちわでパタパタ余分な酢を飛ばす、ご飯は少なめ、具は多めって。のりのサイズから粉ワサビの作り方まで。なんか即席すし屋のワークショップやってしまいました。自慢じゃないけど料理は不得意中の不得意。(自慢にならない?)なのにワタシまるで寿司作りのプロみたいな顔して指導してしまいました。こういうのはったり?っていうんでしょうね。

オーストラリアでは、ある程度はったりをかます神経の図太さ必要です。でもはったりかましっぱなしだとあと続かないから、この手を使うのは急場しのぎにしましょう。やっぱり一番格好いいのは<能ある鷹は爪を隠す>でも、爪があっても出し惜しみしているとナイのと一緒だし、能も爪もない私なんかはまず爪作りからはじめないとね。

2002.6.10

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その19:ワークショップ

学科が17科目終わった時点で、前から予約していた ワークショップ(学内実習)に参加した。ワークショップに出るためには、それまでに15科目以上の試験を合格する事、決められた課題を二つコーディネーターに提出すること、予約を入れておくことなどが条件として挙げられている。

しかし、もともと何事にもフレキシブル?なオージー達(オージー達だけじゃございません、ヨーロピアンも然り、アフリカンも負けてはおりません)である。課題をすっかり忘れて(忘れているならまだ良いほう、分かってて出さない輩も何人かいた)出さずに参加しているものもいれば、中にはまだ15科目受かっていないのに、折角予約を入れたんだから参加させてとわけの分らない理由を言って頼み込んだ人など、実態は例によって非常にファージーであった。

普段からいい加減を自称しているこの私ですら、なんとか期限までに課題を終え、学科も17科目終了させ、万全を期してワークショップに臨んだのに、初日からこういういい加減な状況を目のあたりにして「ず、ずるいぞ!看護婦ともあろうもの達が、そーいういい加減なことでいいと思っているのか!」とこの時ばかりは自分のことは棚に上げ、先行きに一抹の不安を感じてしまった。

ワークショップそのものは、朝8時半から始まり夕方5時半まで、4日間にわたり行われたが、内容は初日の不安を裏切る非常に充実したものであった。ワークショップの目的は病院実習に出る前の基礎看護技術、知識の再確認と練習である。大体の内容は次の通りである。

体位変換、患者の移送方法、水分出納バランスの計算と記入方法、無菌的操作、申し送り、記録、看護計画作成、病院のポリシーと看護婦の義務責任について、
クリ二カルパスウェイ、医師の指示に基付いた薬品や点滴の滴下数の計算、
病院で使われる略語について、注射(ルートの側管からによる静脈注射、
筋肉注射、皮下、皮内注射)、輸血、輸液の交換、ドレッシングの交換(包交)、
抜糸(リムーバーも含む)、ドレーンカット(抜去も含む)、導尿など。


挙げるときりがないが、日本で看護婦としてある程度の経験があれば、簡単にクリアできるものばかりである。こういった一連の看護技術を理論、ビデオ、デモンストレーションを交えて駆け足で確認作業をしていくのである。

講師達は、大学の講師のほかに、パースの主だったそれぞれの病院からやってきていた現役の看護婦達があたってくれた。理論、パフォーマンスは大学の講師が受け持ち、実技テストの判定を現役看護婦達が受け持った。個人的にはどの実技もさほど難しいものには思えなかったが、扱う物品が日本ではお目にかかれないものがあったり、抜糸、ドレーンカットなど、日本では看護婦が普通はあまり扱う事のない範囲にまで及んだ時など、正直「ゲゲッ!こんなことまでやるんかい!」とビビッテしまった。(ちなみにドレーンカットや抜去などは、別に医師の指示がなくとも看護婦の判断でやる場合もあるらしい)しかし、実技に関しては案ずる事はない。この不器用な私ですら、やった事のない手技においても誰よりも早く実技テストをパスしてしまったくらいなのだから、日本人看護婦全員が受かる事間違いなし!実際ワークショップを受けた事のある日本人ナース達にアドバイスを聞いてみて欲しい。きっと<だーいじょーぶだってー!楽勝!楽勝!>というありがたい助言が返って来るハズ。案ずるより生むが易し。気楽にのぞめばあっという間の4日間。

2002.6.3

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その18:プレッシャーに打ち勝つために

勉強している間に何度となく落ち込んだ。一生懸命やっているわりには目にみえる効果が出ない。しかも、受けるべき科目はまだ山のように残っている。いったい一年で終わるんだろうか?終える事が出来るのだろうか?と落ち込んだ時ほど、そんなことは不可能に思えてしようがなかった。幾度となく、些細な事で落ち込んでは、些細な事で再浮上していく。周りはまったく関係なく、自分の勝手な思い込みで落ち込みの原因にしたり、元気になったり。結局は自分自身が問題なのに。どこかで知らないうちに、相手より優位に立とうとしていたり、勉強も、ただ試験に受かるだけでなく、良い点を取ろう、取ろうと不必要なプレッシャーをかけていたり。誰もそんなことは期待なんかしていないのに、自分で自分の超えるべきハードルを必要以上に高くもしていた。しかし、そこに気が付いて、いくらハードルを低くしようとしたところで、合格ラインは80%。これはその時私たちに課せられたハードルであり、超えなければならないハードルだった。

折角落ち込みから浮上しても、しばらくすると、またそのプレッシャーに押しつぶされそうになってくる。思いっきり勉強がしたい!勉強に没頭したい!と願ったところで、今更背負い込んでしまったものは、おいそれと放り出す事も出来ない。この時ばかりは、仕事も、家族も自分にとっては重荷以外のなにものでもなかった。そして、一生これが続くわけではないのだからと、毎日自他ともに言い聞かせていた。


このように、移民看護婦コースで学科の試験勉強をやっていた間は、気分的に浮き沈みの非常に激しい毎日だった。どうしてこんなに苦労しなくては看護婦になれないのか、そんなに看護婦になることが重要なのかと自問自答も繰り返した。しかし、最初の動機がどうあれ、この道を選らんだのが私なら、始めたのも私。何にも手にせずに諦めてなるものかというのが、その時の踏ん張りの根底にあった。転んでもタダで起きるな!Show the Spirits!である。こんな状況は生きていく中できっと誰にでもあるはず。10代、20代、30代と、それぞれの年代で乗り切れるはずのチャレンジしかやってこないのだ。その個人のそれぞれの年代に見合ったやりかたで危機をのり切ることが試されているのだ、とともすれば毎日でも落ち込みそうになる自分をそうやって無理してでも叱咤激励していた。

しかし、いつも叱咤激励のみで這い上がれたわけではない。それでもやる気が起きなかった時などしょっちゅうだった。そんな時にはもうしょうがないから自分をとことん甘やかした。我慢していた好きな事を思いっきりやった。勉強しない、料理しない、掃除洗濯もしない。そして子供もパートナーに任せて、私は友人から借りた赤川次郎100冊近くを読んで読んで読みまくった。手元にあった100冊に近い本を全て読み終える頃には、鉛のように重たくつかえていたものがすっきりとしていた。そして純粋にまた頑張ろう!と思う事が出来た。


一番大切な事は、休み休みでもいいから続ける事。私からこのコースを乗り切る為のアドバイスがあるとすれば、以下の3点だろう。1)計画2)継続3)自信(読んで字のごとく自分を信じるという意味です)。あとこれは大切なおまけだが、これをやっていたら自分はシ、ア、ワ、セ、というものを絶対キープしておいたほうがいい。勉強からただ逃げるので無く、我を忘れられる楽しい事を勉強の合間にしたほうが、結果的には勉強の効率が良い。急がば回れである。ちなみに私の場合は、1)読書(ミステリー、エッセイ、ラブストーリーー感情移入しやすく且つ頭を使わなくて済むもの)、2)テレビ、映画(特にテレビシリーズではERは欠かせません、医学英語聞き取りの練習にもなります。そして、オーストラリアの病院ドラマシリーズではAll Saints−内容的にはERほどの緊迫感はありませんが、病院の雰囲気、スタッフ達のやり取りは実際の現場そのもの−色恋沙汰は別にしてです)、3)気の置けない友人との長電話。ご参考まで。

2002.5.27

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その17:何科目終わったの?

学科は3回まで試験を受ける事が許され、各科目のテストは一時間以内に回答しなければならない。すべてが選択問題で25問ある。大学の図書館内にあるコンピュータールームで、他の学部の学生に混じって試験を行わなくてはならないため、予約が必要である。行けない時にはキャンセルの電話を入れなければならない。年末や大学が休みになる時期も図書館は開いているが、試験を受けられる日も隔週に一日のみと限られてくるため、それを見越して、いつ何を何教科受けるか調整する必要がある。試験の合格ラインは、私がこのコースを始めた時点では80%だった。ようするに5問までの不正解が許された。(現在の合格ラインは数量計算と薬理学はまだ80%のままだが、それ以外の科目は68%となっている)

問題はコンピューターによってアットランダムに選び出されるため、いつも同じ問題が出るとは限らない。全ての答えを用紙に書き込んだ後、コンピューターに自分の答えをインプットするやり方で自己採点していく。これが何度やっても心臓に悪いのである。25問全ての答えを入力した後、答えを変更しますか?という一文が画面に現われる。ここでいつも腕組みをしてしまう。あそこの答えがちょっと自信ないんだけどどうしよう、変えるべきか最初の勘を信じていくべきか、まさに悩めるハムレットの心境になる。ええいっ!ままよと決心してNoのキーを押すと、非情にも画面の上の方からタタターッと順に不正解だった答えが並ぶ。そして最後に合格、不合格の宣言がなされるわけで、この間約1、2秒。もし不合格であっても、同日には同じ科目は受ける事が出来ない。頭を冷やして出直してこいという訳である。3回受けても尚不合格な場合には、規定によれば、自動的に退学となる。しかし、通常は、2回不合格だった場合、コースコーディネーターと面接を受けるようにアドバイスされる。3回目に落ちてからでは手後れになるからだ。

実を言うと、整形外科の各論で私は3回試験を受けることとなった。なぜに整形外科で?と思われるだろうが、何度勉強しても分らないのである。分かった気になってテストを受けると間違える。私にとっては、むしろ、神経系、循環器系の各論の方がスンナリ理解できたように思える。これはもう、向き不向きとしか言いようがない。それでも、テストを受ける度に点数も上がって行ったので何も考えずに3回目のテストを受けた。2回落ちた時点で面接のアドバイスを受けなかったからだ。3回目のテストの日にスタッフから、「今日は何回目?」と聞かれて3回目ですけど、、、と答えた時の顔。引きつっていたのを私は見逃さなかった。結果は当たり前のように合格。三度目だもの、こんなもんでしょ、と余裕でスタッフの前を通り過ぎようとした時、「よかったわねー!」と思いっきり言われた。実は3回駄目だったら自動的に退学というのは、その時知ったのである。まさに冷や汗がタラーッと落ちてきた。

試験場では、オリエンテーションで会ったオージーの元ナース達ともすれ違ったりした。「今迄何科目終わった?」なんて他愛もない探り合いをしてホッとしたり、焦ったりするのである。驚いたのは、とっくにもう終わっているだろうと思った彼らの何人かは、結構私と同じペースで試験を受けたりしていること。むしろ私の方が進んでいたりした。しかし、これは別に実力の差とかいうのではなく、彼らの場合、計画性の問題だったり、子沢山で時間がなかったり、勉強よりも家庭優先でやっているからに過ぎない。逆に私の場合は、そういう点で思いっきり手抜きをしていたとも言える。夕食はインスタントヌードルだったり、Takeawayだったり、パートナーに任せたりだった。もちろんいつもそうだったわけではないが、特に解剖生理学を勉強している間は気が狂いそうだった。日本語でやってもタフな科目は、英語でやっても同じ事で、むしろ英語でやるぶんもっと大変だったと言えるだろう。

2002.5.20

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その16:学科を学ぶときのポイント

学科については、日本での知識や経験はあるわけだから、おさらいをするようなものなのだと最初のうちはタカをくくってたが、甘い考えだったことがすぐに判明した。学校で習った事などきれいさっぱり忘れている。それはそうだろう。看護学校を卒業して、15年は経っているのだから。本格的な試験勉強だって、15年ぶりの再開である。ちゃんと脳細胞が働いてくれるかしらと心配したが、なんとかエンジンが掛かってくれた。30代になって一からまた全てをやり直すことはしんどい事だが、決して悪いことではない。人間、年齢など関係ない、やりたい時に始めたい時にいつでも始められるのだからと自分に言い聞かせつつも、いざ始めてみると現実は厳しいのである。

教科書をただ見たからって、何が書いてあるかはタイトルからしか推し量れないし、最初のうちは、まさに一語一句訳していかなければ読み進めていくことができなかった。時間は限られているのに、なかなか勉強がはかどらない。さっき辞書で引いたはずなのに、意味を書き留める前にもう忘れてる。ちゃんと覚えたはずなのに思い出せない。勉強しながら若年性健忘症か?一時的記憶障害か?グルコースが欠乏しているからだろうか?とか雑念が湧き出て勉強が一向に進まない。30代でこれを実感すると辛いものがある。だって、ほんの何年か前まで20代を謳歌していたはずなのに。私はまだピチピチのはずなのよー(周囲沈黙)。あと数年で40だなんて考えたくない。気分はまだついこの前30になったばかりなのに(周囲絶句)。

なんで歳の話に???そうそう、試験勉強といっても短時間で覚えられるだけ覚えるといった10代、20代の頃のような離れ業は使えなくなりつつあったが、それでも一旦覚えてしまえば、記憶力はいい方だとそれまでは思っていた。しかし、今回のはあまりにも広範囲なためか、毎回試験に通ったあとは奇麗さっぱり忘れてしまうのである。記憶力に許容量があるとは思わないが、覚えなくてはならない事が山のようにあったため、勉強しながらも頭の中がパンク寸前だったのは確かだった。まるで頭の中がトコロテンになったようだった。古い知識を頭から押し出してからでないと、新しいのが入らない。だが一番重要なことは、試験に受かることであり、忘れた事は後でいくらでも取り返しがつくと仕舞いには割り切った。試験範囲は気が遠くなるほど広いのに、そこから試験に出るのはたったの25問。どんなささいに思える事柄でも問題として出される。とにかく1行も飛ばさずに読みこなす事が大切だ。読んでさえおけば、あとは思い出すだけ。。。。

もう一つ注意すべきことは、自分が日本で培ってきた経験や知識として得たものは、とりあえず凍結しておいたほうがいいということである。日本での経験を元に判断することは、ここでは却って障害になる場合もあり、日本で得た知識、常識、経験は日本でのものとして、オーストラリアではここの基礎をこれから勉強していくくらいに考えた方が何かと混乱を避けられる。例えば、試験の採点を自分でしながら、どうしてもコンピューターの提示する正解に納得出来ない時もある。とくにあと1問で合格だったという時などは尚の事。そういうときには迷わずコースの最高責任者のところへ行って、“この答えは納得が行かない!”と挑戦してみる。(覚えていますか?Critical Thinkingのテクニックです。)当然それなりの根拠がなければ相手に耳を傾けてはもらえない。その際の理由が、日本ではこうでしたと単にいうだけでは何の根拠にもならない。自分の経験を踏まえて挑戦する際には、国を越えた普遍的なパターンに留意しながら例として挙げたほうが相手も納得しやすいし、ここが一番大切なポイントだが、当然点も増えやすい。

2002.5.13

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その15:必修学科23科目

今回はNursing Renewal of Registration Course(=Migrant Nursing Course)、別名リーレジでの必修学科23科目の内訳と内容についての説明です。

General Topics 一般課目

1.Nursing Process 看護過程ーアセスメント、計画立案、施行、評価に沿った問題
  解決的アプローチ。
2.Introduction to Health Assessment ヘルスアセスメント健康評価ーこれも
  基礎中の基礎知識と技術だが、 日本ではどちらかといえば看護婦よりも医師が
  診察時に使うテクニック。 身体のあらゆる器官、部位を対象とした総合的かつ
  系統立てられた観察、問診、聴診、打診、触診法を含む。
3.PhysiologyA 解剖生理ー健康な人間の持つ正常な解剖学的生理学的生態、
  形態のお勉強。
4.PhysiologyB
5.PhysiologyC
6.PhysiologyD
7.Pharmacology in Nursing 看護薬理学
8.Interpersonal Aspects of Nursing 看護人間関係学
9.Stages of Growth and Development 成長と発達の段階
10.Lifestyles ライフスタイルと看護の役割
11.Professional Responsibilities 専門職業的責任と義務
12.Metric Calculations 数量計算

Specific Topics特殊科目

13.Respiratory and Cardiovascular Dysfunction 呼吸器循環器系疾患
14.Musculoskeletal Dysfunction 筋骨格系疾患
15.Neurological Disorders 神経系障害
16.Nutritional and Metabolic Dysfunction 代謝内分泌系疾患
17.Dysfunctional Elimination 排泄障害
18.Congenital Disorders 先天性疾患
19.Immunological Dysfunction 免疫不全
20.Infectious Processes 感染
21.Separation 別離、分離ー肉親の死、末期疾患、切断術、摘出術前後等に
  関連する喪失への看護
22.Mental Health 精神衛生学ーここでは精神神経系疾患は含まれておらず、
  不安、不穏、薬物中毒、敵意、敵対行為などの行動的情緒的障害における
  看護に焦点が当てられている。

Speciality Topics専門科目(この中から1科目選択する)

*Mental Health Disorders 精神神経系疾患
*Gerontological Nursing 高齢者看護
*Paediatric Nursing 小児看護
*Home Care Nursing 在宅看護
*Nursing Issues In HIV AIDS エイズと看護
*Sexually Transmitted Diseases 性行為感染症
*Immunisation 免疫法

2002.5.6

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その14:チャレンジテスト

Migrant Bridging Nursing Courseでは、オリエンテーションの際にチャレンジテストの説明も受ける。チャレンジテストとは、正確にはChallenge Examination というのだが、5科目を除いた18の必修科目が、150問のダイジェストとなって一度に受けられるのである。時間は2時間半与えられ、合格点に達した(私の時は80%、今は68%)科目については履修を免除される。私は合格圏内が80%という時点で、もうこりゃ駄目だ!とあきらめた。明らかに見込みのない事に無駄なエネルギーを費やしても仕様がない。確実で地道に一科目一科目こなしていく方が不器用な私には合っていた。

しかしやはり気になって、後でチェコから来た友人の看護婦に聞いたら、「受けてみたけど1科目しか受からなかったわ」と言っていたので、彼女がたった1科目ならどっちにしても私はきっと0だっただろうと納得した。しかし、今なら合格圏も68%になったことだし、是非やって見たほうがいい。勉強するなら一科目でも少ない方が楽に決まっているからだ。学生だけに専念できるならそれに越したことはないが、仕事をしながらだったり、子供がいたりだったりすると、勉強に集中出来る時間を作るのに苦労することになる。

私の場合は、働いていたのは夕方からであったから、朝子供を学校に連れていったあと、9時から学校のお迎えの時間までの午後3時の内の5時間を勉強に充てていた。しかし、これは自分の勉強のペースがつかめるようになってからのことで、最初の3、4ヶ月は必死に机に向かって勉強していた。特に学科の中で一番理解するのが難しいとされる解剖生理をやっている間だけは、食事、シャワー、睡眠時以外はフルに勉強していた気がする。しかも、解剖生理だけで23教科中4教科を占めているという事は、どれだけこの分野での理解度が重要視されているかが伺えるだろう。

オリエンテーションでは、コースを受けるにあたり、必読書(*ヘルスアセスメント、内科ー外科看護学、薬理学、解剖生理学の4冊)の購入を勧められる。(これらの教科書はまともに買えば$300以上するが、政府からの奨学金がもらえれば、コースも教科書代も実習用のユニフォーム代も全部只になる)
試験範囲は一科目につき平均100ページ以上あり、そのほかにも必読文献がテキストブックに提示されている。それらは大抵、大学の図書館に行けば手に入れることが出来るが、私はあえて読まなかった。理由は、ただ単に面倒だったから。完璧をめざすなら読んでおいた方がいいかもしれないが、試験をただパス
するためだけだったら、テキストと教科書に焦点を絞ったほうが、時間とエネルギーを無駄にしなくて済む気がする。但し、関連ビデオに関しては、実習前に耳慣らしと発音に慣れるために必ず見ておいた方がいいと思う。

2002.4.29

*必読書名

Fuller, J., & Schaller-Ayres, J.(1994). Health assessment, a nursing approach
      (2nd ed.). Philadelphia : J.B.Lippincott Company

Lewis, S.M ., Collier, I.C., & Heitkemper, M .M .(2000). Medical surgical Nursing :
      assessment and management of clinical problems (5th ed.). St Louis :
      Mosby - Year Book Inc.

Paterson, R., Ress, N.W., Czaniak, A., Reiss, D.A., & Evans, M .E.(1996).
      Phamacological aspects of nursing care in Australia(2nd ed.).
      Melbourne : Thomas Nelson Australia.

Tortora, G.S., & Grabowski, S.R.(1996). Principles of anatomy & physiology
      (8th ed.). New York : Harper Collins College Publishers.

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その13:移民用資格取得コースの履修科目と実習

オリエンテーションでは各学科の説明、試験の受け方、勉強を進める上での助言みたいなものが説明される。どの教科から始めたら良いか、一日最低何時間くらい勉強するのがベストか(ネイティブで2時間と言っていたので私は自分で勝手に5時間と見た)、コースでの規則(テストでは辞書の使用が許されるがもちろん看護用の辞書は不可。英和などの二カ国語で表記されているものも使用不可)についての説明もそこで受ける。必修学科は23科目(その内一教科はいくつかある選択肢のうち自分が興味のある科目を受けてよい事になっている。)臨床実習は4週間。プラス実習のための各証明書類提出(無犯罪証明書、First Aid courseの認定証、HBVの予防接種の証明証、MRSAに関する検査等など)、ワークショップ(学内実習)を病院実習に出る前に必ず受ける事等など細かい説明がなされる。これらのことが書いてある小冊子を必ず配布してくれるので、それを見ながら内容を確認して必要事項を書き込んでいく。


ワークショップ前には、学科試験の他に与えられた課題も二つ提出しなくてはならない。一つ目は、自分の家族でも、友人でもいいからクライエントに見立てて、アナムネーゼと身体検査をするのである。
そのために学校は聴診器、検眼鏡、検耳鏡、その他もろもろの機具を貸し出ししてくれる。その後、実際検査した内容と聞き取った内容を所定の用紙に記述していくのである。もう一つの課題は、看護計画の立案、作成である。日本語でやるのであれば、この二つの課題もどうって事はないのだが、これを全て英語でやらなければならない。あたりまえである。しかし、人間ない袖は振れないのと一緒で、自分の知識外の事は知恵を絞って切り抜けるしかない。私の場合、先に終わっている人の課題を参考にさせてもらった。あとは、大学の図書館で記録に関連の有りそうな雑誌や本を見つけてそれを参考にするという手もある。もう一つの手は、コースのコーディネーターに、正直にどうやって書いたら良いのか分らないので、参考に出来るテキストがあれば教えて欲しいと頼んでみる。必ず力になってくれるはずだ。


これら全ての事をオリエンテーションから1年以内に終了しなくてはならない。そのため、計画的に事を運ばないと1年以内では終わらない可能性が出てくる。特にHBVの予防接種などは、最低でも実習に出る半年前から始めないと実習に出る前に結果が出てこない。無犯罪証明証もすぐには出来てこないので、実習に出る2、3ヶ月前から申し込んでおいた方がすぐに届かなかった場合でも確認する猶予がある。実際3ヶ月前に申し込んだが2ヶ月経っても届かず確認の連絡を入れてやっと出来上がってきたくらいである。救急処置法のコースも、早めにその年のコースブックを取り寄せ、日程、場所を確認のうえ、都合の良い日を選んで予約を入れる。無犯罪証明証も救急処置の認定証も一年間は有効である。


ワークショップは最低15科目受かった時点でいつでも参加が認められる。ただし、年数回しかやっていないので、それに合わせて15科目以上受かるように調整していく必要がある。MRSAの検査については、州外の病院や施設で働いた場合に限り義務付けられているため、その経験がなければする必要はない。しかし、これらの情報も微妙なところで常に変わる可能性があるため、必ずその年の最新情報を網羅しておく必要がある。私などは、オリエンテーションでもらった無犯罪証明証の申し込み用紙ですら、その年の内に送ったら、これは古くてもう使えないから別の用紙で申請し直して
欲しいと新しい用紙とともに手紙をもらった。こういうことは、さすがに頻繁にはないが、念には念を入れた方がいい例といえるだろう。

2002.4.22

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その12:移民用の資格取得コースへ

大学付属の集中コースをわざわざ受けなくとも、日本ですでにIELTSをある程度受けれれば、永住してきて次のステップに行くのはもっと楽になることだろうと思う。この結果は、確か2年間は有効だったはずなので、日本に居るうちに6、5から7取れれば、もう半分はオーストラリアで看護婦になったも同然!っていうのは言い過ぎでも、必要書類が問題無ければANCIやNBWAは、喜んで明日にでもトレーニングコースへの判を押してくれるはずである。

そうでなければ、ナーシングホームでボランティアからスタートして、働きながら英語を身につける方法もあるが、とにかくこれは時間がかかる。あと、英語とは関係無いが、自分の日本で受けた研修、終了証などの英訳、大学病院に勤務しているのであれば、教授クラスの推薦状(出来れば英文で)も日付けなしでもらっておいたほうがいい。これはあとで就職活動の際に必要となってくるからである。もちろん、教授でなくても構わないが、そこのトップの推薦状は必要となってくる。こういった推薦状はレターヘッド(病院のロゴマークまたは名前入り)に書かれていないと受け付けてもらえない。このように、決して最短距離とは言えない過程を経て、ようやくANCIの要求する全ての規定基準を満たした私は、NBWAを通して査定を受け、無事 Migrant BridgingNursing Course の受講を許可する手紙を受け取った。オーストラリアへ来てから2年と半年目のことだった。

やっとこれで看護婦になれると思った私は、意気揚々とコースのためのオリエンテーションへ向かった。受講者の内訳は10数人のうち私を除いて、外国人はニュージーランダーの看護婦が一人いただけで、あとは全員オーストラリア人の元看護婦ばかりだった。このコースは移民してきた海外の正看護婦資格保持者の為の資格取得コースであるだけでなく、資格を失ったオーストラリア人看護婦達の為の資格再取得コースでもあった。オーストラリアでは看護婦達は資格を毎年更新しなくてはならず、5年間のブランクがあった場合、自動的に資格を喪失することになる。このように、資格を失ったが、また看護婦として働きたい元ナース達も、私と同じ内容をこなしていく事になる。まあ、彼らの場合はいい。英語の心配はしなくていいのだから余裕よね、とやっかみ半分羨ましさ半分。

オリエンテーションだから、その他大勢の中にまぎれこんでりゃいいんでしょとタカをくくっていたら、いきなり自己紹介ときた。冷や汗タラタラである。ところが自分だけノンイングリッシュスピーカーだったから、ついまた悪い癖で開き直ってしまった。何故だかこういうときだけ江戸弁で「おおよ、英語は完璧とはいえねーがそれがどうしたってんでい?笑うんなら笑えってやんでー。」って心の中で必死に呟くんである。結構こんな単純なおまじないでも効くもので、開き直ったら言葉がスラスラ出てきてしまった。当然のように笑う人など一人もいない。そうなると人間現金なもので、あそこでちょっとは笑いをとっておくべきだったなどと余計な事を考える。人間本分を知ると言うではないか。やっぱりあれが私にとっては精一杯。

2002.4.15

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その11:三者面談

大学付属の英語集中コースを無事終えつつあった私は、直接コンバージョンコースへ入学するか、3年半の学士課程へ編入する道を模索しはじめた。大学は、結果的に日本の看護学校の単位を認めなかった為、直接編入の道はまず絶たれてしまった。コンバージョンコースに関しては、もうご承知の通り正看護婦として登録されてなければ入れない。これに関しては、大学側は絶対に永住者にはYESと言わない。(しかし留学生ならば話は別である)それならば思い切ってまた一からやり直してもいいじゃないの、たった1年半の違いしかないんだから(看護学部はフルに行けば3年半かかるが移民用の看護婦資格取得コースをたどって学士を取るには移民用のコースが1年、コンバージョンコースが1年でトータル2年)と決心し、学部入学の打診をするため看護学部部長との面接に臨んだ。

しかしやはり壁は厚かった。学部長によれば理由は以下の通りであった。1)すでに海外の看護資格を持っているのだからわざわざ一からやり直す必要はなくむしろ時間の無駄である。2)しかも、私一人を入れる事によって、新しく看護婦(士)を目指すオージーの学生を一人受け入れられなくなる。これは何の選択権のないその学生にとっては非常にアンフェアなことである。3)私はすでに海外の看護婦資格を持っているというアドバンテージがあるのだし、そういう人たちを最短距離で資格が取れるようにわざわざ政府が移民用のコースを設けているのだからそちらへいくべきだ。そして4)永住者ならばオーストラリア人達と同じ条件でやってもらう。ここで正看の資格を得た後、彼らのようにコンバージョンコースへ行くべきである。

それぞれの理由は大変説得力のあるものばかりだった。中でも私のせいでこれから看護婦を目指す若い学生の道が一つ断たれるというのには参った。痛いところを衝かれたわけである。その学部長は大変温厚で物腰の柔らかい方だったが、さすがに鉄の意志を持った方という印象で、なかなかこれを突破していくのは大変だぞと私も迷いはじめた。しかし私も必死である。NBWAやANCIの求める英語の実力テストは、費用が高額すぎてそうそう何度も受けられない。大学の集中コースを受け、学部が要求するレベルに達すれば入学できると聞いてきた。実際、他の学部の学生は入学が許可されているではないか。私はそこを考慮してもらう資格がある筈だ、とこちらも高飛車にならないように気を付けながら、なおも必死で食いさがった。とうとう私の状況も考慮すべきだと判断した彼女は、妥協案を出してきた。では移民看護婦コースの責任者を交えて3人で話をしようと言ってきたのである。

結果から言えば、三者面談の結論はあまりにもあっけないものだった。移民看護婦コースの責任者とは以前から何度か会っていたため顔見知りだったが、その彼女が驚くべきニュースをもたらしてくれた。NBWAとの新しい会合で決定された内容によれば、私はすでにそのコースに入るための資格を満たしているというものだった。
要はカーティン大学付属の英語集中コースで、規定のレベルに達する事が出来れば、英語の試験を受けなくとも入校を許可するというものだった。私は開いた口がふさがらず、だ、だ、だって、と穴のあくほど彼女の顔を見詰めてしまった。そして、なおも言葉の出てこない私にその彼女が一言。”だって昨日決まったばかりだから。”
これだよ、これだからオーストラリアは、、、、、、何が起こるかわからんのです。

2002.4.8

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その10:Critial Thinking

大学付属の英語集中コースでCritical Thinkingというものを初めて知った。Critical の意味合いは危険、危機、危篤、決定的、臨界、不可欠の他に厳しく批判、批評すると言う意味も含まれる。的確に批評、批判をするノウハウを身につける練習である。これも、プレゼンテーションと同様、大方の日本人学生にとっては手強く、苦手なものの一つであろうと思う。しかし、このやり方をしっかりマスターすることは、日常のレベルから学術的なレベルにおいてのコミュニケーションスキル(言語的伝達能力)、洞察力、判断力、問題解決能力の向上に役立つ(特に看護婦(士)達はこのCritical Thinkingというものを常に現場で要求される)。実際どういうことをやったかといえば、例えば新聞の記事、ニュース、コラム、読者や識者の声などを取り上げてそれに対し批評、批判をするわけである。<ただ単純に批判すればいいというのではないところにこれの難しさがある。>(講師の受け売り)

この考え方の一番難しく面白いところは、批判、批評をする際に相手の論点の盲点、弱点、欠点を明らかにすることである。そのためには自分がまず必ず相手の論点を明確にしなくてはならない。そして、相手がその論点を裏付ける証拠に何を用いているかを探すのである。それらが果たして、科学的な検証によってはじき出された数字的現象的事実なのか、単なる感情的な論点、もしくは何の根拠のない一般論にすぎないのかを系統立てられた細かな対策方法、分析方法に沿って論破していく。もちろんその過程において、自分の意見も明確にしなくてはならず、自分が相手に要求している明確な根拠というものを、今度は逆に自分が提示していかなくてはならないのである。<これをスムースに行うためにはトピックスに関連する分野において、ある程度の知識を持つことは望ましいが、何も知らないからといってCritical Thinkingの障害にはならない。必要な知識はあとで付け加えることが出来るからだ。>、ということである。(これも講師の受け売りです)ポイントは、どこででも何にでもとにかくクリティカル。言われたことは鵜呑みにしない。自分でそれを検証するくせを付けること。そしてその検証に必要な材料を知っておくこと。自分のものにしておくこと。

論点が正しいか正しくないのかの判断は後回し。とりあえず論点をサポートする根拠を明確にする能力を第一に要求されるのであるが、危険、危機と言う意味合いも含むだけあって、相手によっては一つ間違えると血の雨が降る可能性だってある。とくにここオーストラリアのような多民族国家ではどの英語のクラスでも、学生達は
世界各国あらゆるところから来ているが、それぞれの祖国が戦争しているもの同士が机をならべて勉強しているような状況。そこで人の意見や考え方の批判を表立ってするわけだから、相手の感情的なレスポンスも当然覚悟しなくてはならない。しかもそれに冷静に対応しながら、相手の論旨の盲点、弱点、欠点を明確にするわけだから、一筋縄ではいかないのである。

クラスでCritical Thinkingの練習と言って、国連の軍事介入の是非を議論した時などはイラン、イラク、レバノン、アフガニスタン人がそろっていたため、とうとう宗教戦争にまで発展してしまった。私を含む他のアジア、ヨーロッパの多国籍軍組は、彼らが隣り合わせに座らないように配慮しながら、論議の事の成り行きをハラハラドキドキしつつ見守った。予想以上に議論は白熱してしまい、始めの論点
なんてどこへやら、最後には、せっかく和気あいあいだったクラスメート達が二分化してしまいそうな様相となった。あまりの事の成り行きに、国連の軍事介入の是非なんてトピックスはCritical Thinkingの練習課題には日常レベルからかけ離れすぎててふさわしくないんじゃないですか?と講師に言ったら、<Critical Thinkingにおいて、トピックスが日常的レベルかどうかは関係無い、しかもオーストラリアは、国連に加盟しており、同時に軍事力も提供している。国連加盟国でなくとも中東から来た彼らにとっても、これは日常レベルの話題のはずである。>と強い口調で言われた。こういうところでこそCritical Thinkingの勉強の成果をアピールすべきだったが、悔しいかな勉強不足で二の句がつげなかった。

2002.4.1

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その9:大学附属の英語コース

結局そのコースではその後レベルアップしたクラスを含め、約一年半近く通ったのだが、内容的にも面白味がなくなったのと、教師達の教え方にも疑問を感じはじた頃、先に述べた大学付属の集中英語コースを友達から紹介され、そこに移る事にした。面接と簡単なテストを受けた後、合否が追って連絡される。授業は当然大学で行われ、図書館、その他のサービスも大学生並みに使う事が許される。大学に入る前に、ちょっとした大学生気分をこのコースで味わう事が出来る。ただし、カリキュラムは過酷の一言に尽きる。というか、私にとってはそうだった。しかしその価値は十分あったと言えるだろう。

半年のそのコースでは、集中的に論文の書き方、プレゼンテーション、リサーチのやり方など、日本でいう所の熱血教師達に、大学でのサバイバルの仕方を徹底的に叩き込まれた。エッセイやリサーチは、自分が専攻したい分野に関連するトピックスを選ぶように指定されたため、私はここでは水を得た魚のように頑張った。やっと、少しは私の知ってる事が勉強に生かせるようになったためか、ここではまずまずの成績を残す事ができた。そして、私の英語が少しは上達したかなと自他共に自覚しはじめたのはこのころでもあった。

日本人が最も苦手とするプレゼンテーションは、度胸試しのつもりで臨むくらいの方が気が楽になる。どうせ相手も、同じ英語を学ぶ仲間なんだからあがる必要はないのである。ただし、プレゼンで
一番うるさく言われるアイコンタクトには参った。原稿を見ずに内容を全てそらで言えれば完璧なのだが、なにせ物覚えが悪いときてるものだから、紙を見ながら、アイコンタクト、アイコンタクトと唱えていると、自分が読んでいた個所を見失ったりする。少しでも間が開くともういけない。最後には得意の開き直りで、アイコンタクトを犠牲にして内容重視に絞った。全体的に評価は良かったのだが、クラスメートからの評価では一人を除いて全員がアイコンタクトがないという
コメントを書いていた。やっぱり!といったところだろうか。しかし、メゲるほどの事ではない。

一番辛かったのはグループリサーチである。グループでリサーチングするわけだから、仕事を分担して出来る利点もあるのだが、期限通りに自分の仕事をやらない人、出来ない人様々で、いいメンバーに当たれば儲けもんだが、下手をすると自分がすべて背負い込む羽目になったりする。それでいて、点数は皆平等にもらえるのだから不平等この上ない。私のいたグループでも、最初は3人いたメンバーのうち一人が、いつのまにか途中でドロップアウトしてしまい、もう一人のメンバーはアフガニスタン人で故郷の家族が内戦で大変な目に会ってしまったとかで、とてもリサーチどころではなくなってしまった。結局、私が全て一人で背負い込む羽目になったのである。アサイメント(課題)の最終提出日に、レクチャラー(講師)からもう一人のメンバーに何パーセントのポイントをあげるべきかと聞かれ、困ってしまった。

彼女にしてみたら、私に対してフェアであろうとした結果なのだが、もう一人のメンバーの状況を考えると、何も好き好んでリサーチに参加できなくなったわけでもなく、もし自分が彼の立場であれば、同じようになったかもしれないと思うと、二人の名前で出すリサーチなのだから、そう思って採点して欲しいと言ってしまった。仕上げるまでが死にそうなほど大変で、「あいつめ!
今度あったらただじゃあおかない!」って思っていたのに。最後の最後でこれだもの。ま、結局こうなる事は最初から分かっていたような気がしたけれど。

2002.3.25

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その8:他国を知って自国を知る

祖国を命からがら逃れてきたのはもちろん彼らだけではない。旧ユーゴスラビア、エチオピア、アフガニスタンと様々であった。彼らの書いたエッセーに中には、銃をもって戦った若者もいた。その内の一人の若者は、いくら敵でもあいてに引き金を引かずに済んで良かったと書いていた。それを読んだ私が、つい“そしたらあなたが殺されてたかもよ。”と言ったら、“それも嫌だが、人を殺すのはもっと嫌だ。”と言っていたのが非常に印象的だったのを覚えている。

日本は平和ぼけしているといわれて久しいが、有無を言わさず、そういう状況に巻き込まれる事のない社会は、本当に幸せなことだとここへ来て心から実感する事ができた。同時に、こういうオーストラリアのようないろんな国の背景をも抱えた多民族国家で、看護婦をやっていくには一体何が一番必要な事なんだろう?という疑問も湧いてきた。そこで、ただ看護婦の資格を取るだけでなく、更にオーストラリアの大学で勉強する必要性をここで確信したように思える。

このように、日本では決して会う事の出来なかった人たちとの交流を通して、却って世界の中の日本、そして自分が日本人であるという事実に否が応でも向き合わされることとなるのである。日本人であるという事。日本人である私。そして、ただの私。日本にあのままいたら、決して深く考えはしなかったであろうこういった問題に向き合わないと、ちゃんとオーストラリアでやっていけないように感じる自分がそこにいた。もともと、日本にいた時から、自我の強いほうだと自覚していたつもりだったが、そんな私でもここでは周りのパワーに押しつぶされそうになる。私のやっていた自己主張なんて、所詮、ここでは蝿程度のノイズでしかなく、自覚していた自我も仮性的みたいなものだと気が付いた。

なんでもかんでも一つのものとして包み込んでしまう日本と違い、オーストラリアは個人単位の、グループ単位の社会だというのがここに住んでみての私の感想である。日本では周りとの調和、ありていに言えば、皆の中の自分の位置を考えて行動するように思えるがここオーストラリアでは、始めに自分ありきである。まず、自分はどう思うか。何をしたいのか。それを明確にしてから話し合い、もしくは多数決で決められる。これは一見フェアに思えるが、実のところ弱いものいじめになる可能性も同時に秘めている。多数決ではマイノリティーの意見は却下されがちで、話し合いでは強いものが弱いものを吸収していく。どちらのやり方が良いのかは決められない。日本のやり方では、新しい事を始める場合に時間がかかるかもしれないが、オーストラリアの場合は、逆に意見がまとまりにくく、定着するのに必要な時間と理解が得られにくいような気もする。

日本やオーストラリアの文化の利点や欠点が良く見え始めてきたのも、日常の生活の中で違う文化や人々に当たり前のように接するチャンスをこのコースで得る事が出来たお陰だと思っている。移民のためのクラスであるから、日本人だって一クラスに2人いれば多い方である。授業の内容は毎日同じ事の繰り返しのようでうんざりくるし、チューター達は大の大人である生徒達に対してまるで子供を相手にしているかのように接し、やりきれなさを感じる時もしょっちゅうだった。それ以上に、オージーの3歳の子供たちよりもひどい自分の語学力のなさや発音の悪さ、上達の遅さに非常に情けない思いをする時もあるが、ここで経験したこと、経験しなければならなかった事は、私の中では楽しい事も辛い事も全て含めて必要な事だったと今でも確信している。実際そう思わなければやってられないのである。

2002.3.18

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その7:教室の中の多民族

移民用の英語のコースはビギナーにはある程度有効といえた。話は逸れるが、英語に少しでも自信がある人たちにはここを飛ばしてカーティン大学付属の集中英語学校へ直接行くことを勧める。ちなみに、そのコースも試験と面接があるが、永住者であればタダである。たしか、IELTSで5から5.5のレベルであれば入れる。カーティン大学で何かを専攻したいのであれば、このコースを終了した後、終了時の英語のレベルで入学の可否が決まる。ただし、今現在の情報では、永住者の場合、日本の看護大学を卒業していない限り、看護学部へ直接入学する事は難しい。(この場合編入という形になるか、大学院へ直行になるかは、大学側の査定を待たなくてはならない)。

永住者で海外の正看の資格を持っているならば、必ずといっていいほど看護学部から移民用のBridging Nursing course を受けるように言われるからである。私の場合、学部が要求する語学レベルに達しても、諸々の理由(理由に関してはまたのちほど詳しくご報告します)で直接大学に入る事は出来なかったが、最終的にはこの集中コースで語学力をつけ、ANCIとNBWAの要求する水準に達する事が出来たといえる。付け加えておかなくてはならないのが、カーティン以外の大学に行きたい場合は、やはり、IELTSを受けてその大学の規定のレベルに達しないと受け入れてはもらえない。

移民用の英語のコースは授業はそれなりに興味深かったが、どちらかといえばつまらない方に近かった。ただ、それ以上に色々な国から来た人たちに会えたのが一番の収穫と言える。クラスメート達とは、バーベキューパーティーをしたり、いろいろな情報交換をしあって励ましあったりした。しかし、コースが終わればそのまま連絡が途絶える事が多かった。今はどうかは知らないが、前は日本では転勤組はともかく、通常は家族であれば一つのところに長くいるのが当たり前だった。だから、少しのあいだ連絡が途絶えてもまた連絡を取り合えるという強みがある。

しかし、ここでは、一緒に毎日のように勉強し、親しくなっても常に連絡を取り合うというのはまれである。皆、いい仕事、住まいを求めて常に東でも西でも移動するため、私のアドレスブックはすぐに一杯になっては使えなくなっていった。そのため、今では前ほど連絡先を控える事はなくなった。そんな中でも、ミャンマーから来た親子とは、しばらくクリスマスカードの交換などをし合って長らく連絡を取ったりした。牧師であるユーモラスな父親と二人の娘、息子一人だけがオーストラリアに移住することが出来たが、彼の妻と長女家族はまだ祖国に居るといっていた。祖国では軍が少数民族を弾圧しており、特にカレン人である彼らへの弾圧は悲惨なものだと、その話をする時だけはいつもユーモラスな父親が物憂げな表情をしていた。彼らは本当に心のやさしい人たちで、自分達も大変なはずなのにいつも他の人たちのために何かをする事を忘れなかった。一度、パーティーに招待された事があったが、すべて手作りでおいしい料理に100人以上は御相伴したはずである。残念な事にいつのまにか連絡が途絶えてしまったが、いまだに、どんな時でも、ユーモアと笑顔を忘れない彼らを思うと、私なんかが弱音を吐いてる場合じゃない!と不思議と励まされる。

2002.3.11

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その6:移民用英語のコース

でも、こういった一種のカルチャーギャップは慣れてしまえば大した問題にはならなくなる。それに応じて対策が練れるからだ。確実な情報がないということ。これが、ここでは一番困ることだろう。昨日までは確実と思われていた規定が変わったり、また更に変わるかも知れないというのは日常茶飯事。おまけに、対応している本人ですら情報を把握していないことがままある。オージーのイージーゴーイングはこういった環境に適応するための知恵なのか、彼らの素質がこういった状況を生み出してしまったのか、まるで、ニワトリが先か卵が先かのようである。

このように、予定は未定ということで、情報は常に混乱していた。おまけに、先の日本人看護婦から得た情報はこの時すでに規定の内容が変わる予定だったため、なんの役にも立たなくなってしまった。そして実際彼女が経てきたPATHWAYと私がクリアしなければならない基準は結果的にはちがったものとなり、履修を要求されるコースの期間も半年から一年へと長くなっていた。

こんな状況にあっても、周りの心配をよそに、私の楽天主義は絶頂期だった。なんとかなるさ!信じるものに道は開ける!オーストラリアはご存知の通り多民族国家である。そのため、移民達のメンタリティーに関する調査は進んでいるといって過言でない。移民達のメンタルステイトの推移に関するベーシックな調査によれば、海外から移民してきた人々は、大体において4つのステージをたどるそうである。ハネムーン期、混乱と怒り期、無気力と絶望期、そして再生期だそうである。そして私はまさに、そのハネムーン期にあって不安はありながらも希望と幸せの絶頂期にあったわけだ。まさに何とかなると信じて。ちなみに私の場合、第一ステージを過ぎてからは、第二、三、四期がごっゃませで現在に至っている。

話は移民用の英語のコースに戻るが、前も言ったとおりこのコースは無料である。そのため、入る前に面接を受ける。そこで、面接官の独断と偏見で各レベルに振り分けられる。が、実際は、そういうわけでごちゃ混ぜといってよかった。ここでは、クラスメート達の国籍も年齢も様々だった。殆どが、東欧組、アフリカ組、南米組 そしてアジア組からなっていた。皆祖国では、医者、弁護士、看護婦、エンジニア、牧師、教師、ジャーナリストと専門職についていたが、移民してきたオーストラリアでは、すぐにそういった仕事に就けるわけも無く、それぞれがクリーナーやらレストランの皿洗い、ウエイター、ウエイトレスと特別なスキルがなくてもとりあえず出来る仕事をやって生計をたてていた。家族を抱え、言葉も分からないまったくゼロからのスタートで、仕事の合間に英語を勉強していくのは、はたから見ていても大変そうだったが、私とて状況はにたようなものだったのに、まるっきり他人事のようにお気楽なものだった。なにせハネムーン期なもので、惚れてしまえばあばたもエクボの世界。見たいものしか見えないわけで。状況をきっちり把握するまでに更なる時間が必要だった。

2002.3.4

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その5:情報収集のテクニック

確かに英語もろくに話せないのではお話にならないのは当たり前と思い、それでは英語をまず勉強しようとオーストラリア政府主催の移民用の英語のコースに入る事にした。理由は単純。タダだったからだ。なんだか、どうしても話題が経済的なほうへ偏ってしまうのだが、別に生活に困っていたわけではない。本当に。でも、無料で英語が勉強出来るんだったらその方がいいに決まってる!と誰でも思う、と思うのだが、、、。

ともかく、このコースに通う傍ら日本から持ってきた必要書類を移民局で英訳してもらったり、NBWA(Nurses board of WA)で資格取得のための情報収集に奔走した。しかし、やはりこちらへ来ても確実な情報は得られなかった。まったく、オーストラリアでは日本では当たり前な事が通用しないと思っておいたほうがいい。オフィスが始まる時間はルーズだが、閉まる時間は不思議といつも正確である。規則、規則とうるさく言うわりにはこれでもかというくらいの例外がある。

日本では一を言えば十の答えが返ってくるが、ここでは十言ってやっと一の答えが返ってくる。一でも返ってくれば、たいしたもんだと相手を誉めてやっていい。きっと次は二を返してくれるはずだ。これは事実である。こちらがナイスにしていれば、相手も必ずそれに答えてくれる。逆にこちらが高飛車になれば、なんにも返してはくれないんである。ただし、ナメられてはいけない。あくまでも、丁寧に、明確に断固とこちらの欲しいものを辛抱強く訴えるのである。あの品この品と手を変えて。いつも同じアプローチでは返ってくる答えだっておんなじに決まってる。ポイントは”私は女優よ”スピリッツ。この一言に尽きる。

もう一つの交渉のポイントは”引き際はあざやかに”である。人間、誰しも、無理強いやごり押しは嫌いである。相手の一存ではどうにもならないことだってある。そういうときは素直に引下がって別の方法を考えた方がいい。自分がどうしても引けない次の時のためにとっておくのだ。むやみやたらと、自分と相手のエネルギーと時間を消耗してはいけない。あと、絶対忘れちゃいけないのが交渉の三種の神器。笑顔、ハートと必要証拠書類。これだけは絶対忘れずに。

2002.2.25

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その4:サバイブするために

オーストラリアの正看護婦達のための学位取得コースはフルタイムでT年。パートタイムであればいくらでも時間をかける事ができる。(一応リミットはあるらしいが。)私の知っているオージーの看護婦は、働きながらだったので結局規定の学科を全て終わるまでに4年もかかったと言っていた。一般の看護学部がフルタイムで三年から三年半かかるわけだから、それ以上かかったことになる。三年から三年半というのはBachelar of Nursing なら3年、Bachelar of Science なら3年半一般学生達は大学に通うことになるという意味である。違いは単純である。前者の場合、大学院に行きたければ
看護系にしか行けないが、後者の場合、健康科学に関連する分野であれば看護系でなくても専攻する事が出来る。どういうシステムになっているかはそれぞれの大学によって違うが、同じ看護学部でもこういう違いがある事に気を付けた方がいい。

ともかく私は、このコースにダイレクトに入りたかったのだが、どうやらすんなり事は運ばないらしいと悟ってからは、今自分が最低限しなくてはならないことに没頭しようと、気持ちを切り替えた。この、気持ちを切り替えるというのはオーストラリアでサバイバルするために特に必要な最低条件である。思う通りにいかないからって、それに固執ばかりしていると、時間はどんどん過ぎていってしまう。オーストラリアではともかく一つの事がはっきりされるまでに時間がかかる。待っている時間も自分の人生の一部なのだから、自分のために有効に使った方が後々後悔しないですむ。

もう一つ、気を付けなくてはいけないのが、どんなことを言われても個人的にとらない事である。もちろん、自分に対して言われるわけだから、個人的にとってどうしていけないんだと思われるだろうが、要は相手はあまり深く考えないで言っている事が多い。というよりも、今ここにいる自分に対して言ってるわけで、明日の自分に対してまでではないということ。決してあなたの性格や人間性までを否定したり、非難しているのではないという事である。そして、どんなに激しく言われようが、これは違う!という事が一つでもあれば、反論しなくてはならない。それを言わないでそのままにしておくと、それを認めた、受け入れたと捉えられてしまう。そして、後でいくら反論しても後の祭りなんである。しかし、我々奥床しい日本人には、なかなかこれを自然にやるのがむずかしい。やっぱり、引いてしまいますものね、どうしたって。

言われっぱなしで英語が思うように話せないために悔しい思いをしても、それはそれでいいんである。いつかは出来るようになるって信じられれば。そのために一時落ち込んでも、また力を取り戻した時に歩き出せばいいのだから。そして同時にそうやって自分に力を取り戻すための練習を積むチャンスにもなる。などと、偉そうな事を言っているが、私だって未だに苦労しているのである。30数年培われて来た性格はなかなか軌道修正が難しい。三つ子の魂百までである。百歳になってやっと変われるかもしれないのだから、あと60数年のうちに何とかしよう。

2002.2.18

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その3:情報収集

オーストラリアで生活しようと思ったきっかけは、子供をどこの学校に入れるべきか悩んだ結果と、時間的に余裕のない東京での生活に終止符をうちたかったのと、私自身が大学を卒業したいという長年の夢をかなえたかったからだ。まさに私にとっては一石三鳥のアイディアだった。決心すればあとは行動のみである。万全を期してこの計画を実行したかった私は、オーストラリアで看護婦になるべく出来うる限りの情報収集にいそしんだ。

いそしんだといっても、私に出来た事といえば留学に関する本や雑誌を買い集め、行きたい大学の資料を取り寄せたりするくらいで、実際のところ、日本ではオーストラリアで看護婦になる十分な情報を得る事が出来なかった。オーストラリア大使館へ問い合わせもしてみたが、電話に出てくれたお姉さんはけんもほろろにそういう話は聞いた事がないので無理でしょう。唯一私の知ってる方はイギリスのオックスフォードに留学された事のある方で、その方は例外といっていいんじゃないんでしょうか。というような応対をしてくれた。ご親切にありがとう!である。まあ、彼女を責めるわけにはいくまい。ほんの数年前の出来事だったが、当時、ほとんどの看護雑誌でさえも、アメリカ、英国留学者の体験談、看護婦資格取得のノウハウばかりを載せて、オーストラリアに関するものは皆無といっていいくらいだったのから。

情報収集に行き詰まった私は、こちらに在住していた友人のつてを頼って西オーストラリア州の看護婦資格を持った日本人にお会いするチャンスを得る事が出来た。そこで得た情報は日本では得られないものばかりだったが、同時に道のりは想像以上に険しそうだった。しかし、実際そうやって資格を得た人がいるのだから、私にだってやって出来ない事はないはず!と得意の勝手な思い込みで、NBWAからもらった資料をもとに、必要書類を集めはじめた。

ANCIやNBWAが求める必要書類は日本にいるうちに集めておいたほうがいい。出来れば、それらの書類をしかるべきところで英訳してもらえればこちらへきてからの時間が節約できる。ただ、料金を考えると、オーストラリアの方がコストが安くつくかもしれない。ただ、私の場合をいえば、これらの資料はこちらへ来てから1年半は用なしだった。とどのつまり、英語をちゃんと話せるようになることが先決であり、そこをクリアしなければお話にならないからである。

行きたかった大学も、永住者であれば留学するわけにもいかず、他のオーストラリア人達と同じように、西オーストラリア州の正看護婦資格を取ってからコンバージョンコース(正看護婦達のための学位取得コース)に入るように言われてしまった。だって、他の大学では、日本の看護婦資格で留学生が入学を認められているじゃあないですか!と無け無しの英語力で食い下がってみたのだが、結果は同じだった。永住者なら看護婦になってから出直してこいというんである。そんな殺生な!と思ったが後の祭り。ポリシーはポリシーと言って取りつくしまもないのである。なぜに、留学生と永住者ではそんなに差があるのか、今でもすっきりと納得したとはいいがたい。

2002.2.11

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